04.仁賀保重挙・挙晴


Ⅰ、仁賀保重挙

 仁賀保重挙が家督を継いだ頃、仁賀保氏は矢島氏との攻防に勢力を傾けていました。

「矢島十二頭記」には、

①矢島満安が天正8(1580)年3月に仁賀保領へ攻め込みましたが途中で撤退した事、

②翌9年4月には、仁賀保へ攻め込み山根館の「三ノ木戸」まで攻め込みましたが、赤尾津道益・子吉殿が仁賀保の援軍に出陣したため、矢島に退却した事

を伝えております。

 更に天正10(1582)年5月中旬、矢島満安は子吉氏を攻めました。これに対して仁賀保重挙は子吉氏を救援しようと出陣、矢島満安はそれを見て退却しました。

 その時、仁賀保重挙は歌を詠み矢島満安に送ったと言われます。

 それによれば

矢島殿 今朝の姿は百合の花 今は子吉の風につらをむくるや

と詠ったそうです。対して矢島満安はこれに返歌いたしました。

仁賀保殿 手をかざしたる子吉原 矢島の風に露や落けり

と。まあ、訝しいトコもないわけではありませんが、中々ホノボノとした戦ですな。

 さてさて、それに遡る事天正6(1578)年。上杉謙信が没すると、庄内の北、仁賀保氏と隣接する観音寺城主である来次氏秀(きすぎうじひで)は出羽庄内の盟主である大宝寺義氏に対して叛旗を翻しました。

 そもそも大宝寺氏の権力とは上杉謙信の威があってこそ成り立っていたもので、上杉謙信が没してしまえば、大宝寺義氏なんか…ね。結果的に来次氏秀の謀反は鎮圧されましたが、義氏は氏秀を処罰できず、逆に知行を与えて懐柔する事しかで来ませんでした。

 この来次氏秀の反乱は御館の乱に連動してするのではないでしょうか?。御館の乱とは上杉謙信没(天正6年3月13日)後の2人の養子景勝景虎の跡目争いで、天正6年3月中旬から天正8年頃まで続いた騒動の事です。景勝派・景虎派に分かれ武力で激突いたしました。大宝寺義氏は景虎を、対して庄内に影響力を持つ越後本庄(現在の村上市)の本庄繁長は景勝を支持し袂を分かちました。

 この大宝寺義氏の判断は同盟者…庄内衆や由利衆…との間で軋轢を生じ、来次氏秀が反乱を起こしたものでしょう。…もいっちょ言えば、彼は単独で大宝寺義氏と敵対したのでしょうか?。背後の仁賀保氏や由利衆も当然、一斉に景勝派になった為、大宝寺義氏は懐柔せざるを得なかったものではないでしょうかね?。…でなければ仁賀保氏ら由利衆に攻めさせているでしょうから。

 いずれ、御館の戦いは景勝側が勝利したことにより大宝寺義氏には後ろ盾が無くなってしまいました。上杉家があってこその大宝寺氏です。大宝寺義氏の領国支配は益々動揺します。

 ただ、仁賀保氏も矢島満安との戦いで消耗し、積極的な行動が取れず、由利郡は大宝寺氏と緩やかに同盟をしている状態だったと想像致します。

 しかし、これを好機と考えた人物が居ました。現在の秋田県の北部を本拠地とする安東愛季です。安東愛季は由利郡の北端に位置する小介川治部少輔に対して、大宝寺義氏への反乱を後押しいたします。小介川氏の領土は現在の由利本荘市岩城・新沢そして雄物川南岸であり、小介川氏が大宝寺氏につくという事は、安東氏の南の守りが丸裸になるという事でした。小介川氏は天正10(1582)年頃、反大宝寺に転じました。

 怒り心頭の大宝寺義氏は小介川治部少輔を討つ為に由利郡に出陣します。仁賀保重挙はこの時、大宝寺氏側に与して安東氏と戦った様です。しかし大宝寺義氏は小介川氏と安東氏の連合軍に敗れ、庄内へと帰還いたしました。

 その隙を狙い由利郡の東の小野寺輝道も由利郡に侵攻を開始しました。由利衆は結束して小野寺氏にあたり、これを撃破しました。大宝寺義氏は小野寺輝道の家臣と度々書状を交わしており、由利衆を挟撃して由利郡を分割する計画を持っていたのではないかと考えられます。

 大宝寺義氏・小野寺輝道とも由利衆に敗北し両者の権威は低下します。焦った大宝寺義氏は翌年に再度、由利郡の小介川治部少輔を討つべく出陣いたしましたが、今度は準備万端の安東愛季・由利衆に敗れ庄内に敗走いたしました。

 庄内では大宝寺義氏に対して来次氏秀や砂越次郎らが反乱を起こします。義氏は重臣の前森蔵人に兵を預け、これらを討伐させようとしました。

 しかし天正11年3月6日、大宝寺義氏の居城尾浦城は突如大軍に包囲されました。大軍を任された前森蔵人氏永が突如、謀反を起こしたのです。義氏は居城である尾浦城で切腹しました。「義氏繁昌、土民陳労、前森無本、床中一等大浦一城四方ヨリ発火急ニ焼却、則義氏切腹」と伝えられています。

 大宝寺義氏が切腹した事によって困ったのは仁賀保重挙でした。元々仁賀保氏は今まで見て来たとおり上杉景勝派と考えられ大宝寺氏とは敵対していました。しかし大宝寺氏に攻められると、大宝寺義氏方にころっと転がり大宝寺氏に与同して安東氏らと戦いました。後世作の「湊・檜山両家合戦覚書」によれば、「ニカフ・内越・イワヤ」は安東氏の捕虜になったとされています。…実際はどうですかね?。

 史料批判も必要かもしれませんが、安東氏とは敵対していたと考えられます。大宝寺・小野寺が由利郡で敗北したことにより、安東氏の息の掛かった小介川氏の勢力、引いては安東愛季の勢力が伸びるのは当然でした。後ろ盾を失った仁賀保重挙は大宝寺義氏の死の4ヶ月後、天正11年7月6日、家臣によって討ち取られたそうです。又一説によれば切腹に追い込まれたと伝えられます。22歳と伝えられます。