08.仁賀保光誠…その4 奥州仕置

Ⅴ、奥羽検地と仕置

 天正18(1590)年、豊臣秀吉は小田原征伐に出発いたしました。同年2月27日付の秋田実季宛最上義光書状によれば「然而小田原為御追討、関白様関東へ御動座之間、年来御注進申上御首尾与申、御陣場へ参上雖申度候」とあり、東北の諸将は既に小田原征伐がある事を察知していました。

 仁賀保氏らも無論察知しており、秀吉が出兵するや諸将そろって小田原に参陣したようです。以後、由利衆は小田原の役参陣以降、豊臣秀吉によって独立の国人領主として認められました。

 仁賀保光誠の正妻は「北条氏家臣田村掃部の娘と伝えられております。ということは小田原の役の際に娶ったものであろうと思うわけですが、この時の事と考えられる件が仁賀保氏には何件か伝わっております。

①仁賀保氏の客将と伝わる三浦一族は、相模三浦氏の末裔と言い伝えられていたこと。

②仁賀保氏領内に大須賀正木など、関東に所以のある氏が散見されること。彼らは北条家家臣でもあった。(大須賀は仁賀保氏家臣で、正木は領内の姓)…ただし現状確認での話で、特に祖先の確認が出来てはいないことに注意

③仁賀保光誠の娘がいずれも千葉氏分流の国分氏の縁者にいずれも稼していること(無論、彼らも北条氏家臣)

など、明らかにこの頃の縁と思われるものが散見されます。

 北条氏滅亡後は、おそらくですが、仁賀保氏らは秀吉の宇都宮参陣に際し小田原より宇都宮に動いたものと考えられます。因みに南部信直には7月27日、佐竹義宣には8月1日付でこの宇都宮で知行宛行がなされております。

 豊臣秀吉は奥羽の仕置を行う時に、伊達政宗・最上義光のみならず全ての領主の妻子を上洛させました。人質ですね。その上で奥羽両国の検地を始めました。出羽国の検地は上杉景勝大谷吉継が行いました。上杉景勝は8月1日付で庄内を、9月18日付で仙北・秋田表を検地する様に秀吉に命ぜられています。庄内は上杉景勝旗下の大宝寺義勝(実質的には父の本庄繁長)の領土でしたが、彼らは検地反対一揆を勃発させたとして改易され、大宝寺義勝は大宝寺城下に蟄居させられました。この後、庄内は上杉景勝の腹心の直江兼続が庄内を統べ、庄内は上杉景勝の物になりました。

 上杉景勝の動向からして、由利郡の検地は庄内の検地と仙北・秋田表の検地の間に行われたものでしょう。この検地は差出検地で、由利衆の石高は表向きは次の表の様に定められました。

 1. 仁賀保兵庫助(光誠) 3,716石

 2. 打越宮内少輔      1,251石

 3. 根井五郎右衛門     169石

 4. 岩屋能登守(朝盛)      891石

5. 下村彦次郎     170石

6. 石沢二郎      399石

 7. 小介川治部少輔   4,000石(推定)

 8. 滝沢又五郎     2,600石(推定)

 9. 玉米信濃守     (不明)

10.   潟保治部大輔    (不明)