天正18年12月24日付で、彼らには知行が「新たに」与えられました。これは先祖伝来の一所懸命の地を守り抜いたという概念でなく、秀吉が配下である彼ら一人一人に所領を与える事により、主従関係を明確化にしたものです。これは秀吉の動向からして聚楽第にて知行宛行われたものでしょう。小介川治部少輔、滝沢又五郎、玉米信濃守及び潟保治部大輔の石高は不明ですが、後に課せられた木材運上の割り当てから推察すると表の如くなります。右の知行高は秀吉の知行宛行状が残っているので、確かなのですが、実はこの石高に少々問題がありました。
天正18(1588)年の仁賀保氏の領土は、知行宛行状により現在のにかほ市と由利本荘市の矢島地区・鳥海地区である事が確認されます。更に潟保氏は関ヶ原の戦いの折に仁賀保氏旗下で参戦している事や、子吉氏が仁賀保一家である事などからすると、子吉郷・潟保郷(現由利本荘市の一部)も実質仁賀保氏の領域であったと考えられます。俗に「由利5万5千石」と称される由利郡の実に半分近い領土を領しながら3,716石の知行宛行状とは、少なすぎではないでしょうか。
秀吉の知行宛行状からその謎を推定してみたいと考えます。
(史料11)
出羽国油利郡内所々合参千七百拾六石事、目録有別紙令扶助訖全可領知候也、
天正十八年
十二月廿四日 (朱印)
仁賀保兵庫助とのへ
(別紙)
於出羽国油利郡内知行方目録事」合参千七百拾五石九斗九升」右宛行訖、全可領知候也、
天正十八年十二月廿四日 (朱印)
仁賀保兵庫助とのへ
(光誠)
一 百石弐斗 大竹村
一 弐拾三石四斗六升六合 この浦村
一 百三石 ミつもり村
一 九拾三石壹斗四升三合 平沢村
一 四拾八石六斗壹升四合 せき村
一 三百拾四石壹斗弐升六合 あら町村
一 四百三拾六石 ひた祢村
一 百卅石六升一斗 おくに澤村
一 百卅六石六斗五升七合 しほこし村
かふり石村
一 弐百五拾石八斗一升六合 せり田村
一 弐百九拾六石弐斗八升六合 上はま三ヶ村
一 百六拾五石 むろの沢村
一 弐百五拾二石五斗 杉沢村
一 四百卅四石壹斗弐升六合 東小出村
一 五拾九石八斗八合 たつかミ村
一 七拾石九斗四升四合 中野沢村
一 弐拾石七斗四升四合 すゞ村
一 卅八石五斗九升五合 まちい村
一 弐百拾石五斗九升三合 くろ川村
一 百弐拾石一斗 ことかうら村
一 百弐拾六石六斗弐升 上はま村
一 弐百九拾弐石四升 こたき四ヶ村
(史料12)
配当之覚
一 志と橋村 本郷村 大竹村 中沢村 檜口村 金浦村
右之田地
都合七万八千苅
此米
〆七百八拾石
但半物成ニしてハ 一千五百六拾石為知行と出置者也
天正廿年 八月廿日
仁賀保兵庫頭(花押)
同名 宮内少輔殿
参
(史料11)は豊臣秀吉からの知行宛行状ですね。(史料12)は仁賀保光誠が一族の仁賀保宮内少輔に対して「志と橋村」以下6ヶ村、1,560石の知行を与えた文書です。(史料12)は天正20年の文書ですので(史料11)の発給年と1年半しか違いません。ですので両知行宛行状に記された村の石高は、それ程差は無い筈ですが、比べて見ますとて(史料11)の3,716石は異常に少なすぎるのではないかという疑問が沸きます。
(史料12)に出ている6ヶ村の石高を(史料11)で記されている石高で算出してみましょう。
大竹村が100石2斗、中沢村 70石9斗4升4合、金浦村 23石4斗6升6合、
志と橋村は不明ですが、もし塩越村(もしくはその一部)の事だとすれば90石程度で、
樋ノ口村は元和9(1623)年の知行宛行状から50石程度と推察されます。
本郷村は(史料11)中の「こたき四ヶ村」の一つで、同じく元和9年の知行宛行状から60石程度と推定されます。
これを合計すると404石強となり、(史料12)の石高1,560石と実に4倍弱もの差が現れるわけです。
この差はどうして現われたのでしょうか。
その理由を考えると、
1つには秀吉の知行宛行状に記されている石高が、知行高ではなく貢租高であろうという事。
ですが、半物成として考えても倍以上の格差が現われます。
2つには秀吉の検地は差出検地であるが為に、ごまかしがかなりあったのではないかという事
です。
慶長7(1602)年に仁賀保光誠が常陸に転封されて、最上義光の家臣楯岡満茂が旧仁賀保氏領を検地した結果、仁賀保氏の貢祖高は7,400石余りであった事がわかっています。
これが半物成として考えれば仁賀保氏の知行高は1万5千石弱、秀吉の蔵入地と推定される村落を除いても関ヶ原前後の仁賀保氏の石高は1万2千石程であったろうと推定されます。又、その10年前の天正18年と言えども石高は1万石はあったと見るべきでしょう。
故に(史料11)に於ける石高3,716石という数字はかなり低い数字であり、仁賀保氏領の真の姿を現わしているとはいえません。
上杉景勝は半月程の驚くべき短時間で由利郡の検地を終えており、強引かつ粗雑な一面があったと思われます。又、秋田実季管轄の太閤蔵入地内にて同様の増加が確認されるそうです。仁賀保氏は秀吉に過少申告し、天正20年頃再び領内検地を行い実際の石高を導き出した物かと考えます。天正18年の検地の出羽国の石高は置賜郡を除いて異常に少ないことも知られていますね。
さらに(史料12)には「檜口(樋ノ口)村」という(史料11)には記載されていない村が出て来る事に注目するべきですね。 樋ノ口村は他の村落に含まれていた…と解釈する向きもあるかと思いますが、樋ノ口村は地区で言うと「小出」という地区に含まれます。その小出地区は「東小出」と「西小出」に分けられ、そのうち「西小出」地区が全て知行宛行状に含まれていないんですね。
これはどういう事かというと、「仁賀保光誠は豊臣秀吉に安堵されないながらも自由に家臣に宛行える村を持っていた」という事です。即ち仁賀保光誠は「隠し村」を領内に多数持っていたと考えられるわけです。その村々は諸検地表により仁賀保氏居城山根舘の城下の小国村の外、西小出地区の村落、矢島郷の大半など数十ヶ村に及ぶようです。
(天正18年の知行宛行状に出てこないが、確実に存在したと思われる集落)
(仁賀保郷) 院内、上小国、馬場、石田、杉山、三日市、伊勢居地、中野、三十野、樋ノ口、畑、赤石 、前川、大飯郷、大森、大須郷、小砂川
(矢 島郷) 伏見、平森、新沢、城内、猿蔵、崩、下川内、上川内、平加森、指鍋、前郷、郷内、小板戸、中山、七日町、下篠子、坂下、小坂、九日町、木在、上篠子、新城、洲郷田
これらの村々を豊臣秀吉の蔵入地であると見る向きも有りますが、仁賀保光誠が家臣に自由に宛行っているので、蔵入地ではないと思われます。
天正18年の奥羽仕置の時の秀吉の蔵入地の設定は天正15年の関東奥羽惣撫事令を基本にしていると考えられます。伊達政宗の仙道七郡の没収は有名ですが、出羽国でも秋田実季が湊合戦を私戦とみなされ旧湊安東氏領を没収されました。
無論、仁賀保氏も矢島満安を滅ぼしてその領土を併合した事が関東奥羽惣撫事令に触れた事は想像に堅くなく、故に(史料11)に於いて矢島氏が最後に守っていた土地と思われる子吉川東岸(右岸)と笹子川流域の村落は安堵されていません。
これこそ秀吉の蔵入地ではないでしょうか。
なお、仁賀保氏の居城山根館城下の院内村も知行宛行状に出てきませんが、周辺の地名から推察すると城の中に村があったと考えられます。これは家臣団の居住地であり、城の範疇に入っていて村とは認められていなかった物でしょうか。
未確認事案でありますが、佐竹氏は天正18年に25万5,800石の知行を受け、その後、文禄4(1595)年に再び知行の高直を受け、54万5,765石となっております。文禄4年…由利郡でも下村氏ら小ぶりの領主が潰されたと伝えられる年です。この時、由利郡の領主の石高も何らかの変更があったものではないでしょうか。
出羽国の検地がおかしいのは衆目の一致する所であり、今後、その研究が待たれます。