Ⅲ滝沢氏・由利氏

 由利十二頭の一といわれる滝沢氏の出自は、言い伝えによれば由利氏に遡ると言われます。

 由利氏というと、仁賀保氏ら大井一族が由利郡を拝領する前に領主であった者達ですね。『吾妻鏡』にその動向は現れます。由利の八郎は「奥六郡内、貴客備武將譽之由」と名将畠山重忠に言われる程の武将であった事は間違いないですね。

 この由利氏の出自については、先人諸氏が思いの丈を述べまくり、百花繚乱といった感があります。もうお腹いっぱいです。

 ですが冷静に考えますと、由利氏に関しては史料としては唯一『吾妻鏡』があるだけなんですね。個々の思いは別として、『吾妻鏡』を見る事が重要だと考えます。

では…由利八郎の出てくる場所ですが

①文治5(1189)年9月小7日甲子。「宇佐美平次實政生虜泰衡郎從由利八郎。」から始まる記事。

②文治5年(1189)年9月小13日庚午。「又由利八郎預恩免。是依有勇敢之譽也。但不被聽兵具云々。」という一節。

③文治5(1189)年12月大24日己酉。「工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。」という一節。

④文治6(1190)年1月小6日辛酉。「爰兼任送使者於由利中八維平之許云。」という一節。

⑤文治6(1190)年1月小18日癸酉。「由利中八維平者。兼任襲至之時。弃城逐電云々。」「二品仰曰。使者申詞有相違哉。中八者定令討死歟。橘次者逐電歟。」という一節。

⑥文治6(1190)年1月小29日甲申。「維平所爲。雖似可賞翫。請大敵之日。聊無憶持歟之由。有沙汰。及此御書云々。于時公成遠慮可然歟云々。」という一節。

ですね。

 一見して解りますよね。

 文治5年に出てくる藤原氏の郎党である由利氏は「由利八郎」でして、文治6年に大河兼任と戦って討死したのは「由利中八維平」ですね。『吾妻鏡』は明らかに両者を区別して書いていると考えられます。

 即ち、由利の八郎…これは「由利郡を領土に持つ某八郎」という意味であると考えられ、ハチローさんの姓はホントは不明ですね。…ま、ホントに由利という姓だったかも知れませんが。

 対して由利中八郎維平さんですが、彼はどっから来たのでしょうかね。

 これも手垢に塗れた話で論ずるに足りないわけですが、『吾妻鏡』の治承4(1180)年8月小20日の記事に「仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。 北條四郎(中略)中八惟平(中略)是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。」とあります。この記事以降、頼朝の雇従として活躍してきた中八惟平という人物がおり、彼は奥州征伐後、姿を消します。まあ普通に考えると、彼が由利の八郎以降の由利郡を領し、後の由利中八維平となったのでしょうな。

 大河兼任の乱の折、兼任は由利中八惟平へ「主の仇討ちである」と宣言します。研究者によっては兼任が奥州藤原氏恩顧の「由利八郎」に「共に戦おう」といったのでは…と推察する旨もありますが、『吾妻鏡』を素直に取ると、頼朝恩顧の御家人である中八維平が「なんで謀反なんか起こすんだ?。オメーの元の主は亡くなって今の主は頼朝公だぞ」という問いかけに対する回答と取るべきなんじゃないかなー。

 で、兼任から「チャラくせー事ゆーなー。仇討さー。」と言われて怒った由利中八維平は2度戦って戦死。という事でしょう。中八維平は源頼朝の最も早い時期に使えた「將之所恃也」という武将であるので、頼朝は由利中八維平が「逃げた」と言われた時にも、「それは違う」と言い切ったんでしょうな。但し、頼朝は由利中八維平の行動を短慮であると考えた様です。大体、武器を持つことが許されなかった「由利八郎」が討伐に行けるはずもないでしょう。

 以上『吾妻鏡』よりわかる事は、

由利の八郎は奥州藤原氏旗下の名将であったという事。後に放免されましたが武器を持つことは許されなかった…つまり御家人になる事は無かった…という事。

由利中八維平は、源頼朝の「將之所恃也」という武将である中八惟平の後の姿であろうという事。

だと思います。

 由利中八維平の死後、その長子と思われる由利中八太郎維久が跡を継ぎましたが、自身の弓の腕を過信し、和田合戦で調子に乗りすぎて北条泰時に不況を買い由利郡を没収されてしまいました。北条泰時にしてみれば、頼朝恩顧の御家人は北条氏の支配には邪魔でしょうしねえ。この後、由利郡が大井氏の領土になるのは前述のとおりです。

 しかし由利氏の一派は由利郡を召し上げられた後も由利郡に住み続けた様です。由利維久が所領を没収されてから80年程たった永仁7(1299)年、下記の文書が出されたことが知られております。


可令早小早河太郎左衛門尉定平法師法名仏心領知出羽国由利郡小友村由利孫五郎維方跡事、右為召進筥根山悪党人之賞所被宛行也者早守先例可致沙汰之状依仰下知如件

永仁七年四月十日   陸奥守平朝臣御判


 これは安芸の小早川氏に由利孫五郎維方の持っていた小友村を恩賞として与えるという文章です。

 余談ですが「小早河定平」ですが、沼田小早川家の分家の人物で小早川家2代目の小早川景平の子孫に当たる人物のようです。彼の父は椋梨国平、祖父は新庄季平、曾祖父が小早川景平にあたります。

 彼は文安3(1266)年に、以前からの当主小早川茂平…定平の大叔父…との相論を、幕府の裁許により沼田新庄の支配権を獲得しています。また正安元(1299)年に総領として一族の小早川一正丸と再び相論に及んでいます。

 この様に由利中八維平の末裔は由利郡にも着実に根を下ろしていました。「維(惟)」という通字から推察するに、由利郡に根を下ろした由利氏は「由利の八郎」の子孫ではなく、「由利中八維平」の子孫であると考える方が無難でしょうね。この後に出てくる戦国時代末期の滝沢氏自身も、通字に「惟(維)」を使っており、由利中八維平の子孫であるという事をアピールしております。

 この小友村は後の資料で、「由利郡小石郷乙友村」として登場いたします。小石郷…子吉郷の事でしょうな…にあり、正平13(延文3/1358)年に北畠顕信より、鳥海山大物忌神社に寄進されます。無論、南朝勢力が小友郷を実効支配していたとはとても考えられませんが。

 いずれ「由利孫五郎維方」の存在により、南北朝時代に現在の子吉川の河口付近を支配していたのは由利氏である可能性が高いと考えます。 

 軍記物などによれば、正中元年(1324)に、由利氏は仁賀保郷に居た鳥海弥三郎に滅ぼされたと言われております。仁賀保郷は北朝年号を使っている為、北朝方であろうと考えられますが、中由利…現在の由利本荘市の本荘地域、滝沢地域などを領する由利氏は南朝方だったのかも知れません。そういえば 康永2(1343)年9月の結城親朝注進状の中に由利兵庫介の名がみえます。これが、もし由利郡の由利氏であれば、この時期まで由利氏は南朝方として活動していたといえましょう。

 仮に由利氏が鳥海氏に滅ぼされたとしても、それは仁賀保郷に居た由利氏の一派でありましょうし、私は由利氏の一派は南朝方として滝沢地方を中心として活動していたのではないか。そしてそれが滝沢氏となっていくのではないかな…と考えます。 私は鳥海弥三郎と由利氏の闘争は観応の擾乱が背景にあったのでは…と考えます。いずれ、小友村にいた由利氏は「孫五郎」、滝沢は「又五郎」であり、由利「中八太郎」維久流由利氏の直系ではないでしょう。もしかすると鳥海弥三郎に滅ぼされた系統が本家だったのかも。 

 さて、この由利氏の子孫であると言われる滝沢氏でありますが、戦国時代の中期までは結構な勢力があったようです。天文24年、滝沢氏は仁賀保挙久等と上洛しました。その際、蜷川氏を介していたことは間違いないと思われます。 更に同年には蜷川親俊が小野寺・仁賀保・瀧澤氏等に鷹師竹鼻氏を派遣、翌年には将軍足利義輝の意を受けた政商の富松氏も歴訪したそうです。

 この様に滝沢氏は仁賀保氏と共に室町幕府共繋がりを持ち、また、幕府もその存在を認めていた様です。

 しかしながら、永禄年間まで相当の勢力を持っていたらしき滝沢氏ですが、矢島氏と争いごとをする様になり、すっかり勢力を衰えさせて行きました。 「矢島十二頭記」によれば、永禄元(1558)年には矢島氏と滝沢氏が争い出し、滝沢氏に仁賀保挙久が加勢した為、矢島氏と仁賀保氏の争いが始まりました。仁賀保氏と滝沢氏は上洛の関係を見ても、非常に仲良く行動していたので、滝沢氏に肩入れするのは当然と言えば当然でしょうかね。

 滝沢氏の永禄期の当主は滝沢刑部少輔、天正期の当主は滝沢又五郎といいました。1次史料による確認では、天正19年から慶長6年までは確実に滝沢又五郎が当主です。滝沢又五郎は天正末期には豊臣旗下の小大名として、仁賀保氏らと行動することが多くなります。

 しかしながら元々それ程強い連帯がある由利衆ではありません。 関ヶ原の乱後には、岩屋朝繁と滝沢又五郎が諍いを始めます。両者は領土を接していないのにトラブルが発生するなど、驚きですが…。

 想像ですが、慶長5年末からの酒田攻めなどに於いての手柄争いなどが原因でしょうか?。小介川氏の重臣と思われる小介川信濃守岩屋朝繁は堀秀治と何度も連絡を取っており、堀秀治も出羽庄内を自領とせんと狙っていたと推察されます。最終的には堀秀治は南部一揆討伐に出陣させられ、庄内を領する事はありませんでした。

 対して、滝沢又五郎は最上義光と昵懇であり、頼み込んで訴訟を起こしました。岩屋朝繁はこれを本多忠勝に裁定を頼んだようです。 原因も結果も不明な争いですが、両者とも独立の領主の地位を失い、最上義光旗下の一諸侯となりました。…ま、そのおかげで転封されずに済んだわけですが。 滝沢又五郎は最上氏の旗下で陪臣ながら1万石を統治する身分になりました。

 さて、滝沢又五郎ですが慶長6年2月29日までは生きていた事は間違いありませんが、8月24日付の徳川家康の陣触の文書では当主が「滝沢刑部少輔」に代わっております。代替わりになったのか、滝沢又五郎が刑部少輔になったのかは判別しがたい物がありますが…。

 この後、滝沢刑部少輔は最上義光の配下となって由利郡に住み続けます。更に慶長8年頃から子吉川沿いに滝沢城を建築し、城下町の整備を始めています。 この滝沢刑部少輔でありますが、慶長の末には代替わりをして「滝沢兵庫頭」へと当主が変わっている様です。慶長19年2月には滝沢美作守(光直)宛に300石を宛行っていますね。実名はわかりませんが、この文書では「光(あき)」という署名がある…と思います。自信ないけど。

 と、すれば最上義光の偏諱を賜ったものでしょう。

 もひとつ言うと、巷間伝えられる「政道」であるとか「政範」だとかの名は…ちょっとマユツバモノですね。これらの名は、後に六郷氏の通字により仮託されたものでしょう。

 慶長2(1597)年の木材運上の史料には滝沢又五郎の家臣として賀藤弥兵衛、同3年には工藤弥兵衛准景(これかげ…でしょうな)、同4年には小浜小兵衛惟吉が出てきます。工藤准景、小浜惟吉とも諱に「惟(維、准、これ)」 が付く所から、滝沢又五郎も諱に「維(惟)」の字を使っていたと考えられます。

 何れにしろ、滝沢氏の系譜は①滝沢又五郎「惟…」、②刑部少輔、③兵庫頭「光…」と伝えられ、その先祖は由利氏らしいという事しかわかりません。

 また、戦国時代には仁賀保氏と親しく、また仁賀保氏と同じように幕府に使者を出せる…上洛できるほどの財力・政治力があった。これが確認されるわけです。

 ま、その他はどんな事を言っても史料が見つかりませんので、単なる推測でしかありません。

私が考えれるのはそんなトコ位でしょうか。

 後の滝沢氏でありますが、最上家改易と共に滝沢家も改易になります。滝沢城は破却され当主は仁賀保氏を頼り平沢に住み着き、龍雲寺にて亡くなったとされているようです。同時期、滝沢氏の領土より仁賀保に多数移住してきていることが確認されています。例えば、後に齋藤宇一郎・斎藤憲三を排出する齋藤茂助家ですね。

 彼らも先祖の齋藤茂右衛門が西滝沢より出て、一代で財を成して…おそらく相当の財を滝沢から持ってきて?…平沢村の大地主になっていきます。また、小野寺義道の書状から鑑みても龍雲寺でなくなったことはあながち嘘ではないと思います。