Ⅳ戊辰戦争


 このコーナーでは、仁賀保2,000石家・1,000石家両家の戊辰戦争での動きを追っていきたいと思います。両家が戊辰戦争でどの様に行動したか…。ま、幕末の旗本の動きを垣間見れればいいなと思います。

1.戊辰秋田戦争前夜

慶応3(1867)年10月15日の大政奉還、その後の王政復古の大号令、鳥羽伏見戦争での幕府軍の敗退などの激動の時代、2,000石家の当主仁賀保誠成、1,000石家当主の仁賀保誠中とも当時は江戸にいました。彼らは今後の身の振り方に相当迷ったと考えられます。

慶応4(1868)年3月13日、東征軍は江戸に到着いたしました。徳川慶喜は上野寛永寺にこもり、蟄居しています。仁賀保誠成らは考えました。

「まー、どー考えても徳川、終わりだよね。こーして見っとさ、明治政府の方が優勢じゃん。聞くところによれば、東北にも鎮撫総督を派遣して幕府軍を解体するって言うし。庄内藩も会津藩もこれまでだね。」

…あれ。庄内藩の隣…仁賀保だね。

…もし、庄内藩が攻めてきて占領されたまま、明治政府に降伏したら…

…俺んトコの領土、このままだとヤバくね?。…

仁賀保誠成は考えました。

まずは家臣の疋田了蔵を仁賀保の平沢陣屋に差し遣わし、当時の寄合肝煎に「出羽の領土で暮すから」と伝えた後、一族郎党引き連れて仁賀保に向かう事にしました。当時の仁賀保1,000石家の動向は分かりませんが、おそらく仁賀保誠成と同道したと思います。当主の誠中は病気であった様です。

3月17日AM8時に品川港に停泊していた船に乗船いたしました。

「今の内、今の内。」…当時はまだ江戸開城がなされていなかったのですが、見切りが早いですな。

3月20日暁、船は出航いたしました。

船は遅々として進まず、21日には大風と雨で伊豆大島に避難し、千葉の外房の興津を出たのが4月1日でした。…歩いたほうが早いじゃん。

船には仁賀保家の妻子も乗っていました。興津を過ぎると船は鹿島灘に入ります。この鹿島灘は女人禁制で、これを破ると海は荒れて通ることが出来なくなると言われていました。ですので船に乗っていた女性は、腰に「長持」や「タンス」と書いた荷札を付け、窓を閉め一切話さず、荷物になりきって鹿島灘を抜けました。

2日の朝6時過ぎには鹿島灘を抜け、そのまま順調に北上し4月6日に宮古の側の鍬ヶ崎港に入りました。ここは鬼や神様が作ったような奇怪な岩が連なり絶景の地だと仁賀保誠成は書いています。

上陸して廻船問屋の和泉屋民右衛門の宿に泊り、今後の事を考えました。

「噂だと、海路も陸路も通行困難だってさ。」

「こっからだと、仁賀保まで直線で180㎞、船だと津軽海峡回らなきゃなんねーから600㎞なわけっしょ。」

「どっちするか…。」

…結局議論は決まらず、海路と陸路の両班に分かれて仁賀保を目指すことになりました。海路班…病床の仁賀保誠中たち…は4月15日に鍬ヶ崎を出発、仁賀保誠成が選んだ陸路班は4月17日に鍬ヶ崎を出発いたしました。

この日は陸前山田に泊り、18日には大槌、19日には和山を越えて遠野へ入り、20には土沢、21日は鉛温泉に泊まりました。

更に22日には現在の西和賀町の若畑へ、23日には新町に泊まりました。24日には奥羽山脈を越えて横手に入り、25日八沢木、26日には子吉川河口の石脇にまで到達いたしました。

27日には知行所である平沢に到着し、家臣を前に勤皇軍につくことを明言いたしました。

2.疑念

さて、勤皇の旗を掲げた仁賀保誠成らでありましたが、この後どうするかを相談することになりました。

「そういえば秋田の佐竹義尭だけど、勤皇だっていってるぜ」

「お、いいんじゃない?。一緒に戦わせてって言えば。」

早速、秋田佐竹藩に使者を出しました。その結果は…

「ダメだってさ。ウチら元旗本じゃん。いくら同じく甲斐源氏の流れをくむ仲間だって言っても、旗本は信用できねーってさ。」

「いーから。何回もお願いしよーぜ。」

こうしている内に庄内藩は重かった腰を上げ、秋田藩をせん滅すべく動き出しました。

「新政府軍にいれてくれるってさ。」

6月20日に至り仁賀保両家は新政府方に加わることになりました。

この時、仁賀保2000石家は佐竹家の中で4番目の席次を得ることになり(佐竹氏の家臣になった様にも見えるが、新政府軍の中で4番目の席次と解釈すべきか。)、仁賀保家の家臣たちは喜びました。

※以下、未だ工事中です。…