2023年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*4月2日「成し遂げられた救い」

ヨハネによる福音書19章28~30節


今日の日曜日は「棕梠の主日」と言います。

主イエスがエルサレムに入城し、人々が棕梠の葉を振って主イエスを喜び迎えたことを記念する日です。

今日から「受難週」が始まります。

英語ではHoly Week(聖週間)と言います。

主イエスがお苦しみを受け、十字架につけられて死に、墓に葬られたことを記念する聖なる一週間です。

祈り深く過ごしてまいりましょう。


受難週の金曜日、主イエスは十字架につけられました。

十字架の場面はすでに19章18節から始まっていますが、今日はその最後の部分だけを読みます。

主イエスの死を語る部分です。

このたった3節の短い箇所に「成し遂げられる」という言葉が2回出てきます。

主イエスは、すべてのことが「成し遂げられた」のをお知りになりました(28節)。

そして、ご自分で「成し遂げられた」と言われました(30節)。

ヨハネによる福音書によれば、主イエスが十字架でお語りになった最後の言葉が、この「成し遂げられた」という言葉でした。


主イエスのお苦しみと死は、主のお働きの中断でも、挫折でも、失敗でもありませんでした。

それどころか完成でした。

主イエスは、

「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる」(4:34)

「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとする」(5:30)

とお語りになりました。


そして、

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)

とも言われました。


主イエスがひたすらに追い求めてくださったのは、わたしたちを救い、わたしたちに永遠の命を与えることでした。

そして、十字架の上で、最後に「成し遂げられた」と言われます。

父の御心が成し遂げられた。

救いが実現した。

主イエスの死が、どのようにしてわたしたちを救うのかは、はかり知れないことです。

しかしはっきりしているのは、十字架において、救いは確かに成し遂げられているということです。

*4月9日「あなたはわたしを愛するか」※キリスト復活祭(イースター)

ヨハネによる福音書21章15~19節


金曜日に十字架につけられ、死なれた主イエスは、金曜日の夕方に葬られ、土曜日は墓の中に横たわっておられました。

しかし、日曜日の朝早く、マグダラのマリアが墓に行ってみると、墓は空になっていました。

主イエスは復活し、墓から出ていかれたのです。

ハレルヤ!


復活された主イエスは弟子たちにご自身を現されました。

マグダラのマリアに、また家の中に閉じこもっていた弟子たちに、「決して信じない」と言ったトマスに。

今日の箇所の直前の箇所では、主イエスは七人の弟子たちにご自身を現されました。

そしてその後、ペトロに特別に語りかけてくださったのが今日の箇所です。


主イエスはペトロに「あなたはわたしを愛するか」とお問いになりました。

主イエスはご自分のものたちを「この上なく愛し抜かれ」ました(13:1)。

「この上なく」というところは、「最後まで」「死に至るまで」ということでもありますし、「極みまで」「徹底的に」ということでもありますし、さらには「成し遂げられるまで」ということでもあります。


主イエスは愛し抜いてくださり、そして告別説教において弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と言われました。

主イエスは弟子たちと深く結びついてくださり、主イエスの愛は弟子たちのうちで生きて働き、互いに愛し合うようにさせます。互いに愛することを通して、主イエスを愛するようにさせます。


この福音書の結びの部分に至って、主イエスがお問いになるのは、「わたしを愛しているか」ということです。

主イエスは三度この問いを重ねました。

他の問いはなさいませんでした。

この問いこそが決定的な問いであり、何度でも立ち返るべき問いです。

主イエスはわたしたちにもお問いになります。


「わたしを愛しているか。」


わたしたちの愛など頼りないものです。

それでいいのです。

わたしたちもペトロと共に答えます。


「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

*4月16日「命の宣言」

ヨハネによる福音書4章43~54節


一人の人が主イエスのもとにやってきます。

この人の息子が死にかかっていました。

主イエスなら助けてくださるかもしれないと思って来たのです。

この人に向かって、主イエスは言われました。


「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」


少し奇妙な言い方です。

病気からのいやしを願っているのですから、「治る」とか「助かる」と言った方がしっくりきます。

だからでしょうか、口語訳はここを「助かるのだ」と訳しました。

しかし新共同訳が直訳です。


「あなたの息子は生きる。」


主イエスが見ておられるのは、病気か健康かではありません。

仕事がうまくいくかどうか、人間関係が順調かどうかでもありません。

本当に生きられるのか。それとも結局は滅びていくのか。

神の前で健やかな命を持つのか。それとも罪のうちに死んでいくのか。

本当の意味での、生きるか死ぬかです。


わたしたちが自分自身を見つめるならば、命はありません。

日々衰え、滅んでいくばかりです。

そのようなわたしたちに向かって、主イエスが宣言されます。


「あなたは生きる。」


それは、わたしたちの罪も死も、主イエスが引き受けて、取り去ってくださるということです。

ご自分の神の子の命をわたしたちにお与えくださるということです。

十字架で死に、復活された主イエスがわたしたちに言われます。


「あなたは生きる。」

*4月23日「死から命へと移っている」

ヨハネによる福音書5章19~30節


(5章1~18節は2018年8月19日の礼拝で読んだので、そこは飛ばして、次の箇所を読みます。)


主イエスのお言葉を聞いています。

とても大切な言葉が出てきます。


「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)。


わたしたちは、「永遠の命」とか、「裁き」とかいったことは、将来のこと、地上の命が終わった後のことだと考えているのではないでしょうか。

死んだ後に復活があり、最後の審判があり、永遠の命を与えられて神の国に入れられると考えます。


ところが、主イエスはここで、そのようなわたしたちの考えとはまったく違うことを言っておられます。

永遠の命を得ることも、裁きを受けることも、もうすでに終わっているというのです。

いつ、どこで終わっているかというと、主イエスの十字架上での死においてです。

主イエスは十字架の上で、わたしの裁きを受け、わたしの死を死んでくださいました。


わたしたちはすでに「死から命へと移っています」

わたしたちが地上の命を終えても、やがて神の子の声を聞きます。

わたしたちの名前を呼ぶ声です。

主イエスが「ラザロ、出てきなさい」と呼ばれると、ラザロは出てきました。

同じようにわたしたちの名前が呼ばれます。

主イエスが呼んでくだされば、わたしたちは死んでいても、塵に帰っていても、生きて出ていくことになります。

わたしたちはただ、呼んでくださるお方のもとに行けばいいのです。

*4月30日「神の声と姿」

ヨハネによる福音書5章30~47節


主イエスを「証しする」もの、すなわち、主イエスがどなたであるかを教え、このお方が信頼できるとわからせてくださり、わたしたちのうちに信仰を引き起こしてくださるものがあります。

それはまず、主イエスが行っている業です。

主イエスは病人をいやし、悪霊を追い出し、福音を告げ知らせてくださいました。

わたしたちのために死に、そして復活されました。


聖書は、主イエスの御業を語ります。

聖書を通して主イエスの業を知ることで、信仰が与えられます。

「聖書はわたしについて証しをするものだ」と主イエスは言われます(39節)。

この時点ではまだ新約聖書はありませんから、「聖書」と言えば旧約聖書のことです。

新約聖書が主イエスについて証しをしている、というのはすぐにわかることです。

しかし、新約聖書だけでなく、旧約聖書も実は、初めから終わりまで主イエスを証ししているというのです。

ここに、聖書の読み方が示されています。


主イエスを証しするのは、さらに主イエスを遣わしてくださった父なる神です。

御父がわたしたちの心に働いて、主イエスへの信仰を与えてくださいます。

そして、ここではまだ語られていませんが、御父が遣わしてくださる聖霊が主イエスについて証ししてくださいます(15:26)。

主イエスの言葉と業とを想い起こさせ、理解させ、信じさせてくださるのです(14:26)。

信じなければならないのではありません。

聖書を通して主イエスを見つめるときに、聖霊が働き、御父が信仰を与えてくださいます。