2020年10月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*10月4日 「もっと近づいてくる神」 ※世界聖餐日、世界宣教の日
マタイによる福音書28章16~20節
「世界聖餐日」は1940年に始まりました。
全世界が戦争に向かっていく中で、北アメリカのキリスト教会連盟が提唱しました。
それぞれの教会で聖餐を守ろう。
そしてそこで、すべての教会が一つの食卓についていることを覚えよう。
教派も、国境も、人種も、言葉も越えて、一つのパンを分け合い、一つの杯から飲んでいることを心に刻もう、というものでした。
これが、第二次世界大戦後、世界中に広がっていくことになりました。
日本基督教団もこの日を覚え、さらに世界のすべての人が聖餐にあずかるようになることを願って、
この日を「世界宣教の日」としても過ごすようになりました。
世界聖餐日・世界宣教の日に当たって、わたしたちは復活された主イエスの言葉を聞きます。
この言葉は、成瀬が丘教会の年間の聖句でもあります。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
「弟子」という言葉が心に留まります。
「キリスト教徒」ではなく、「信仰者」でもなく、「わたしの弟子」と言われました。
弟子とは、師のそばにいつもいる者です。
弟子とは、主人の後について行き、その言葉に従う者です。
復活された主イエスは、これからも弟子たちと共に歩き続けてくださるということです。
世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださるということです。
わたしたちがしり込みしてしまっても、うずくまってしまっても、離れ去ってしまっても、
主イエスの方から近づいて来てくださり、もっと近づいてくださり、わたしたちをとらえていてくださいます。
わたしたちと共にいることをおやめにならず、わたしたちを弟子であり続けさせてくださいます。
*10月11日 「悪を善に変える神」
創世記50章15~21節
創世記の37章から50章まで(38章は除く)、13章にわたってヨセフ物語が語られています。
聖書の中でもっとも長い物語です。
8月、9月とこのヨセフ物語を読み続けてきました。
今回はその10回目、最終回となります。
13章にわたる長い物語ですけれども、その中心ははっきりしています。
家族の崩壊と和解です。
その和解は、しかしすでに45章において成し遂げられました。
その後は再生した家族が幸せを取り戻し、父親が祝福を残して死を迎えたことが語られました。
父親の死がエピローグであるかのようでした。
ところが、ヨセフ物語は父親の死と葬りで終わらずに、なおも続きます。
それが、50章15節以下です。
父親が死んで、兄弟たちは再び罪の意識に捕らえられ、不安でたまらなくなったというのです。
45章で弟と和解したはずなのに、赦されたという確信がなくなってしまいました。
自分で自分にどれだけ言い聞かせても、魂は休まりません。
自分の外からの言葉が必要です。
罪を赦す力を持っておられる神が、わたしの魂に語りかけてくださることが必要です。
*10月18日 「主に信頼する」 ※神学校日、伝道献身者奨励日
エレミヤ書17章5~14節
説教者:能登祐子神学生(東京神学大学大学院2年)
日本基督教団では10月の第二主日を「神学校日」としています。
成瀬が丘教会では、一週遅れましたが、この日を「神学校日」の礼拝としてささげます。
伝道者を養成する神学校の働きを覚える日です。
それと共に、「伝道献身者奨励日」と加えられているように、わたしたちの教会から献身者が生み出されるようにと祈り、
また、自分自身が伝道者へと召されているのではないかと問うて、神の召命を求める日でもあります。
能登祐子神学生に説教の奉仕をしていただきます。
預言者エレミヤは二つの道を見つめています。
呪いの道と、祝福の道です。
中間はありません。
呪われ、滅びに至る道と、祝福され命に至る道です。
エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。
イスラエル王国が滅亡していく時代に生きました。
呪いの道から祝福の道に立ち返るようにと、涙を流しながら語り続けました。
王国の滅亡に立ち会い、国を滅ぼした敵国の捕囚となっても生き続けるようにと語りました。
その言葉さえ受け入れないで逃げ出していく民を見捨てず、彼らと行動を共にしました。
エレミヤは、わたしたちの世界にも二つの道を見つめています。
祝福の道を歩めと招いています。
祝福の道とは、主に信頼する道です。
*10月25日 「痛みを知る神」
出エジプト記3章1~12節
ヨセフの時代から時が移り、エジプトでは新しい王朝がたったのでしょうか。
ヨセフを知らない人がファラオとなりました。
そして、イスラエルの民を奴隷として虐待しました。
過酷な重労働を課せられて、イスラエルの民はうめき、叫びました。
主なる神は言われます。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの
叫び声を聞き、その痛みを知った」(7節)
苦しみをつぶさに見ている。
叫び声を聞いている。
痛みを知っている。
これが神のお姿です。
わたしたちは、他者のことに十分に心を傾け、よく見、聞くことができないでいます。
現代の医学をもってしても、痛みを測ることはできないのだそうです。
神は違います。
神はつぶさに見、耳を傾けて聞き、それどころか、その痛みを共に味わい、知っていてくださる。
そして立ち上がり、救うために近づいてきてくださいます。