2022年11月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

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*11月6日「目を覚まし、身を慎んで」

テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節


キリスト教会は11月1日を「聖徒の日」と呼び、地上の生涯を終えて神の御もとに召された聖徒たちを記念する時を持ってきました。

「聖徒(聖なる者)」とは、いわゆる「聖人」のことではなく、すべてのキリスト者を指す聖書の言い方です。
「聖」とは、「きよい」ということよりも、「神のものとするために取り分けられた」ということを意味しています。
すべてのキリスト者は神のものとされているというのです。

聖徒の日を覚えて、成瀬が丘教会では11月の第一主日に召天者記念礼拝をささげています。


聖徒の日に当たって、テサロニケの信徒への手紙一5章の御言葉を聞きました。

話は4章13節から続いています。

4章13節にはこうありました。


「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」


すでに眠りについた人たち、すなわち、死んだ人たちについて、知っておいてほしいことがある、というのです。

それは、世の終わりに主イエスが再び来てくださり、そのとき死んでいた者たちが復活し、主とお会いし、それからはいつまでも主と共にいることになる、ということです。

ここに希望があります。

復活の希望。永遠の命の希望です。

しかも、このことは、将来への期待ではありません。

今すでに始まっていることです。

わたしたちは、目覚めていても眠っていても、生きていても死んでいても、主と共に生きます。

主が共にいてくださることに対して目を覚まし、主イエスへの信仰と愛、そして主にある希望をもって、わたしたちは歩んでいきます。

*11月13日 「ここで天は開かれ」

ヨハネによる福音書1章43~51節


9月の後半からヨハネによる福音書を読み始めています。

まず登場したのはヨハネという人物でした。

ヨハネは「証人」であり、主イエスがどなたであるのかを証しする人でした。

ヨハネの証しに導かれて、ヨハネの弟子たちは主イエスに従うようになりました。

さらに今回の箇所では、フィリポナタナエルが主イエスの弟子になります。

フィリポは、主イエスのことを伝える人の姿を示しています。

フィリポは単純に「来て、見なさい」46節)と言いました。

これは、主イエスご自身がお語りになったのと同じ言葉です(39節)。

何よりも大切なのは、主イエスのもとに行って、主イエスにお会いすることでした。

フィリポは自分自身主イエスと出会い、ほかの人をも主イエスのもとに招きます。

わたしたちも、ただひたすらに主イエスを指さしたいと願います。


「来て、見なさい」という言葉に促されて、ナタナエルは主イエスのもとに行きます。

そこで知らされたのは、自分が主イエスを見出すよりも先に、主イエスが自分を見つめていてくださり、自分が主イエスを知るよりも先に、主イエスは自分のことを何もかも知っていてくださったということでした。

主イエスはわたしたちを知り、わたしたちを招いていてくださる、わたしたちの神です。

*11月20日 「水はぶどう酒に」

ヨハネによる福音書2章1~12節


カナという村で結婚式が行われます。

当時の結婚式は何日も続くことがあったそうです。

結婚した二人はその間、招いたお客をもてなします。

ご馳走を用意し、何よりもぶどう酒を供することが重要でした。

ところが、まだ婚礼の途中なのにぶどう酒がなくなってしまいました。

これは、当時の常識からすると、たいへん困った事態でありました。

主イエスの母はこの婚礼の世話をする一人だったのでしょうか。

主イエスに率直に「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。

主イエスは水をぶどう酒に変えて、婚礼を救ってくださいました。


主イエスは、日常の小さな幸いをも心に留めてくださる、とも言えましょう。

しかしこの出来事は、「しるし」であり、このしるしによって、主イエスは「栄光を現された」のだと言われています(11節)。

「しるし」という言葉は、ヨハネによる福音書において大切な言葉の一つです。

主イエスが特別な力をふるわれた時、それを「力あるわざ」「奇跡」と呼ばずに(そのとおりでもあるでしょうが)、「しるし」と呼びます。

力あるわざをなさって、それで終わりなのではなく、もっと大いなることを指し示す「しるし」なのだというのです。

主イエスは、願いに応えて、わたしたちを危機から助け出してくださるお方だというだけではなくて、もっと大いなるお方だということです。

それなら、水をぶどう酒に変えてくださったこの出来事は、何を示しているのでしょう。

主イエスはどなたであり、これから何をしようとしておられるのでしょう。

*11月27日 「主は我らの救い」

エレミヤ書33章14~16節


教会の暦では「待降節」に入ります。

「待降節」のことを英語では「アドヴェント(到来)」と言います。

主イエスの到来を覚える期節ということです。

主イエスがクリスマスに到来してくださったことを想い起こし、降誕の祝いに備えるとともに、主イエスが世の終わりに再び到来してくださることを覚え、主を待ち望み、主の再臨に備えます。

待降節を迎えて、ヨハネによる福音書を読むことをしばしお休みし、待降節に教会が読んできた聖書の箇所を読みます。

今回はエレミヤ書の言葉です。


預言者エレミヤは、主イエスの降誕よりも600年も前に生きた人です。

エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。

神の民イスラエルの王国は南北に分裂し、北王国はすでに滅亡していました。

そして今、南王国も滅亡していこうとしています。

エレミヤは、滅亡していく国の中で神の言葉を語り続け、滅亡に瀕しても神の言葉を聞こうとしない民と最後まで共に歩み続けました。

だから、エレミヤは嘆き続け、泣き続けなければなりませんでした。

しかし、裁き、滅ぼすことが神の最後のご意志、最後の言葉ではありません。

王国の滅亡はすべての終わりではありません。

なおもその先があります。

ほかの預言者たちも多くがそうですが、エレミヤも神の厳しい裁きを語りつつも、その先にある光をも語ります。

エレミヤ書33章は、破壊の先にあるいやしと治癒と回復を語ります。

その時、本当の王が現れ、神の民を治めることになります。

そのことによって神の民は救われ、平和が訪れます。

このような仕方で、エレミヤは主イエスの到来を予告しました。

本当の王は、神の民を敵から救うのではありません。

自分自身の罪と悲惨から救うのです。

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