2019年07月の礼拝のメッセージ

★わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」、

讃美歌は、第一週は、讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

★成瀬が丘教会では、7月と8月、

キリスト教学校で学ぶ生徒、学生の皆さんを歓迎します。

夏休みの間に教会の礼拝に出席することを勧められたり、

夏休みの宿題として教会レポートを書くことを求められたりしている人もいることでしょう。

成瀬が丘教会の礼拝では主イエスがお語りになったたとえ話に耳を傾け、

たとえ話が語る神のお姿と心を味わいます。

神の御顔の前で生きるとはどういうことなのか、ご一緒に考えてみましょう。

*7月7日

ルカによる福音書14章15~24節

説教「神は招く――大宴会のたとえ」

「わけ登る ふもとの道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」

という歌があります。

一休禅師の作と伝えられています。

山のふもとにはさまざまな道(宗教や生き方)があり、

それぞれの道を通って高みを目指しているけれども、

実は同じ真理、同じ幸いに向かっているのだ、というほどの意味でしょうか。

ところが、主イエスがお語りになったたとえ話では、

まったく違う景色が描かれます。

わたしたちが求め、わたしたちが山を登っていくのではなくて、

神が招き、神がわたしたちを捜し求め、

神がわたしたちに近づいてこられるというのです。

盛大な宴会を用意し、すっかり準備を整えての招待です。

しかしたとえ話の中では、招待を受けた人たちは皆、断り始めます。

ありがたいことだとは思ったでしょう。

でもそれ以上にやりたいことがあり、急ぎの用事を抱えていました。

その時たとえ話の主人は驚くべき行動をとりました。

そこには、主人の、主人が表している神の、深い思いがありました。

*7月14日

ルカによる福音書13章6~9節

説教「感謝の悔い改め――実のならないいちじくのたとえ」

ぶどう園になぜか一本だけいちじくの木が植わっています。

しかもこのいちじくの木はいつまでたっても実をつけませんでした。

場違いなところにいて、何の役にも立たず、

何の実りもうまず、場所をふさいでいる。

ぶどう園の主人は「この木を切り倒せ」と命令します。

もっともな命令です。

しかし、これを園芸の話ではなく、

わたしたちのことを語るたとえ話として読むと、話は違ってきます。

わたしたちも場違いなところにいて、

だれの役にも立たず、たいした業績も上げられず、

むしろ周りのお荷物になっています。

自分の生きる意味などないのではないかと考え出すと、

涙があふれてきます。

たとえ話では、実のならないいちじくをかばう園丁が登場します。

園丁は、何の見込みもないいちじくの木を信じます。

わずかでも可能性がある、それにかける、というのではないのです。

本当に何もない。

しかし園丁は、いちじくの木を価値あるものとし、価値を造り出してしまいます。

*7月21日

ルカによる福音書13章22~30節

説教「奪われることのない平安――狭い戸口のたとえ」

「狭い戸口から入れ」

という主イエスの言葉を聞いたことがあるかもしれません。

これはどういう意味なのでしょうか。

二つの道の間で迷ったら、あえて困難な道を選べ、ということでしょうか。

だれもが知っている道を行くのでなく、

自分だけの道を見つけよ、ということでしょうか。

弱い者や少数の者の側に立て、ということでしょうか。

わたしたちは幸いを願います。

しかしわたしたちが手にする幸いや平安はもろくて、

何かあればすぐに壊れてしまいます。

主イエスがわたしたちにもたらそうとなさるのは、

壊れることのない幸い、何ものにも奪われることのない平安です。

そこに至るためには、

狭い戸口を通り抜けていかなければならないというのです。

それはどのような戸口なのでしょうか。

そしてその先には何があるというのでしょうか。

*7月28日

ルカによる福音書15章11~32節

説教「父の喜びの物語――放蕩息子のたとえ」

放蕩息子のたとえは、主イエスがお語りになったたとえ話の中でも、

もっともよく知られたものの一つです。

父親がまだ生きているというのに、

弟息子は父親に自分が受け取るはずの財産を分けてもらい、

父の家を飛び出し、遠い国で財産を無駄遣いしてしまいました。

わたしたちはこの息子を「放蕩息子」と呼ぶことに慣れてしまっています。

しかしこの息子は取り立てて性悪のドラ息子だったわけではなさそうです。

親から離れて自由に生活したかった。

まとまったお金を手にしたので、楽しく過ごしたかった。

わたしたちと同じです。

自分の思うように生きて、それなりに豊かな生活をして、

その挙句に彼が味わったのはむなしさでした。

彼は父のもとでの生活を思い起こし、父のもとに帰ります。

すると父は大喜びで彼を迎え、宴会を開いてお祝いを始めます。

不可解な話です。

こんなことでいいのでしょうか。

しかもこのたとえは、神のお姿を語っているのだというのです。

いったい神はどのようなお方だというのでしょうか。

主イエスのたとえ話は、「神の国のたとえ話」です。

神の国、神がおられる世界は、

わたしたちが想像するのとはまるで違う姿をしているようです。

主イエスのたとえ話を通して、神の世界の中に入っていってみましょう。