2020年03月の礼拝のメッセージ

★わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は、讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*3月1日

ルカによる福音書20章27~40節

説教「神によって生きている」


主イエスはガリラヤ地方を出て、エルサレムにまで旅をして来られました。

エルサレムで、地上でのご生涯の最後の一週間を過ごされます。

教会が「受難週」として記念する一週間です。


主イエスはまず神殿に入って、商売をしていた人々を追い出し、

その後は境内で人々を教えたり、ユダヤ人の指導者たちと論争をしたりされました。

論争の最後の話題は「復活」でした。


ユダヤ人たちの中でもサドカイ派の人々は復活があることを否定していて、

主イエスに対しても復活がないことを論証しようとしました。


それに対して主イエスは、「すべての人は、神によって生きている」と言われます。


人間の側から考えている限り、復活はとてもありえないことです。

肉体は朽ちていっても、霊魂は不滅だ、などと考えるよりも、

サドカイ派のように、人間のものは死によってすべて滅びると考える方が、

人間の現実を見抜いています。


人間のこと、自分のことを考えるならばそのとおりです。


そうであるにもかかわらず、わたしたちの地上の命が終わっても、

神は、わたしたちの神であることをおやめになりません。


わたしたちとの絆を解くことなく、

わたしたちとの交わりをなくすことをなさいません。


死においてわたしたちの可能性はゼロになります。


ただ神が神であられるがゆえに、死は終わりではなく、

わたしたちはやがて復活し、永遠に神を喜びながら生きることになります。

*3月8日

ルカによる福音書20章41節~21章4節

説教「心を解き放たれて」


貧しいやもめがいちばん小さな貨幣を二つ賽銭箱に入れます。

それが彼女の全財産でした。


「レプタ二つ」と呼ばれてきた箇所です。

新共同訳では「レプトン銅貨二枚」となりました。

いちばん小さな貨幣。50円玉くらいでしょうか。


最後に残った二枚の貨幣を献げてしまった。

彼女はこの後、どうなったことでしょうか。


この出来事を伝える聖書の言葉は、わたしたちに何を語っているのでしょうか。

*3月15日

ルカによる福音書21章5~38節

説教「身を起こし頭を上げて」


主イエスはエルサレム神殿がやがて徹底的に破壊されることになる、

と予告されました。


その言葉をきっかけにして、世の終わりのことが語られます。

世の終わりなのではないかと思えても、けっして世の終わりではないこと。

エルサレムの滅亡。

そして、天地のほんとうの終わり。


世の終わりは、戦争や病気によってもたらされるのではないし、

自然災害によって起きるのでもありません。


十字架の上で死に、三日目に復活し、天に昇られた主イエスが再び来られるときに、

今の世は過ぎ去り、新しい天と新しい地が到来することになります。


つまり、それは世界の変化であるよりも、

神とわたしたちとの関係の変化であり、神の国の完成です。


主イエスは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。

大切なのは、これから世の中がどうなっていくかを知ることではありません。

大切なのは、変わることのない神の言葉をしっかりと聞くことです。

*3月22日

マタイによる福音書26章6~13節

説教「愛の無駄使い」


ルカによる福音書を離れて、今日からはマタイによる福音書に耳を傾けましょう。


「論争の火曜日」を終えて、受難週の水曜日です。

翌日の木曜日には弟子たちと最後の晩餐を取ることになる、その前日のことです。

一人の女性が主イエスの頭に高価な香油を注ぎました。


わたしたちは主イエスを「キリスト」と呼びます。

「キリスト」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシア語の言葉であって、

旧約聖書が書かれたヘブライ語の「メシア」にあたります。


「キリスト」と「メシア」は、ですから同じ言葉なのであって、「油注がれた者」を意味します。

神に特別に選ばれ、油を注がれて、特別な務めに任職された人のことです。


旧約聖書では、王や祭司が、時には預言者も、油を注がれて務めにつきました。


主イエスを「キリスト」、また「メシア」と呼ぶのは、主イエスこそが真の王であり、

真の祭司であり、真の預言者であり、真のメシアなのだという告白なのです。


主イエスこそが真のメシア、油注がれた者だというのなら、

主イエスはいつ油を注がれたのでしょうか。


主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、

その時に聖霊が降ったことを考えることもできましょう。


しかし、文字どおりに油を注がれる場面を考えるならば、この箇所です。

逮捕される前日に、主イエスは油を注がれ、文字どおり「メシア」となられた。

この油注ぎは、主イエスを「葬る準備」でした。


主イエスはメシアとして、わたしたちのために死に、

わたしたちのために葬られ、そしてわたしたちのために復活してくださいました。

*3月29日

マタイによる福音書26章30~46節

説教「悲しみの祈り」


受難週の木曜日、十字架にかけられる前の日のことです。

主イエスは弟子たちと共に最後の晩餐を取り、そこで聖餐を制定されました。

それから、オリーブ山のゲツセマネという園に来て祈られました。


「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」


旧約聖書で幾度か、神の裁きが、神の怒りに泡立つ「杯」として語られています。

ここでの「杯」は、直接には十字架にかけられて死ぬことです。


これから主イエスは逮捕され、裁判にかけられ、死刑の判決を受け、

十字架刑に処せられようとしています。


しかし、その背後には神のご意志があり、

罪人への神の裁きとしての死を死ななければならないことを主イエスは知っておられました。


神に裁かれ、神の裁きとしての死に至るとはどういうことなのか、

わたしたちは知りません。


主イエスは知っておられます。


主イエスは知って、それを「過ぎ去らせてください」と祈られました。


しかしすぐに、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」

と祈ってくださいました。


主イエスは神の御心に服従し、十字架への最後の道のりを踏み出されます。