2021年04月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*4月4日 「そしてあなたにも」 ※キリスト復活祭
マルコによる福音書16章1~8節
キリスト復活祭(イースター)を迎えました。
十字架につけられ、死んで墓に葬られたキリストは、甦り、墓から出てこられました。
そして今も生きておられます。
キリストの復活をたたえ、キリストによって与えられる永遠の命を喜びます。
マルコによる福音書は、四つの福音書の中でいちばん先に書かれたと考えられています。
そしてもともとは16章8節で終わっていたと思われます。
もっとも古い写本はどれも16章8節までしか書かれていないからです。
すると、最後はこの言葉で終わっていたことになります。
墓が空であるのを見出した婦人たちの姿です。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
福音書の締めくくりとしては、頼りないようにも見えます。
しかし神の出来事に接したのですから、震え上がり、言葉を失うのも当然です。
キリストはわたしたちの初穂として甦られました。
ここで起きたことは、わたしたちの墓においても起こります。
死は終わりではなく、わたしたちもまた甦らされ、墓から出ていくことになります。
*4月11日 「神の最後の言葉」
ガラテヤの信徒への手紙3章15~22節
今年の初めから「ガラテヤの信徒への手紙」を読んでいましたが、
受難節に入った2月21日からそれを中断し、「マルコによる福音書」によってキリストのご受難の歩みをたどってきました。
キリスト復活祭を終えて、ガラテヤの信徒への手紙に帰ります。
今日の箇所は、少しわかりにくいかもしれません。
突然「遺言」のことが出てくるからです。
パウロが語りたいのは、神の約束のすばらしさです。
神は祝福を与えることを約束し、救いを約束してくださいました。
そしてこの約束に基づいて、神の民との間に契約を結んでくださいました。
わたしたちが神のものとされ、神のものをいただくという契約です。
この「契約」の確かさを語るために、パウロは「遺言」の話を始めます。
実は、新約聖書が書かれたギリシア語で「契約」のことを「ディアテーケー」と言いますが、
この語には「遺言」の意味もあるのです。
パウロはずっと「ディアテーケー」の話をしているのですが、この語が、前後の文脈に応じて、
15節では「遺言」と訳され、17節では「契約」と訳されています。
そのために、日本語で読むと、話のつながりがどうしてもわかりにくいわけです。
「契約」という言葉にはあまりなじみがなく、わたしたちにはわかりにくいところがあります。
それでも、「神と神の民の間には契約が結ばれている」ということは、なんとなくわかります。
しかし、「遺言」と言われると、ますます信仰とは結びつかないように感じられます。
「神の遺言」などということが言えるのでしょうか。
パウロは、思い切った言い方をしています。
「神の遺言」がある。最後の言葉。自分の財産をだれに受け継がせるかを定める言葉です。
そこには、わたしたちを神の子とし、神の相続人としてくださると定められています。
*4月18日 「わたしたちは神の子」
ガラテヤの信徒への手紙3章23節~4章7節
「信仰」という言葉は、なかなかやっかいな言葉です。
日本語で「信仰」というと、わたしたちが持つ信心や敬虔さを考えてしまいます。
わたしたちの側のことだけを考えます。
「信仰」と訳されているのは、ギリシア語の「ピスティス」という語ですが、聖書はこの語を神やキリストにも用います。
神のピスティス、キリストのピスティスについて語るのです。
「キリストのピスティス」とは、キリストが誠実で、信頼できる、ということです。
だからこそ、わたしたちもキリストを信頼し、信じることができます。
つまり、「ピスティス」は、その人自身が誠実であることと、だから相手もその人を信頼できることとの両方を意味しています。
日本語には、うまくあてはまる言葉がないようです。
キリストのピスティスによって(つまり、キリストが信実であり通してくださったことと、だからわたしたちもキリストにより頼むようになったことによって)、わたしたちは神の子とされました。
神の御子はキリストお一人のはずなのに、わたしたちも「神の子」だと言われます。
なぜなら「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
「キリストを着ている」。不思議な言葉です。
キリストに包まれ、キリストに覆われています。
神がわたしたちをご覧になるとき、わたしたちにキリストのよいものを見てくださいます。
*4月25日 「キリストの形になれ」
ガラテヤの信徒への手紙4章8~20節
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」
キリストの使徒パウロの言葉です。
一人の人がキリスト者になること。
それは、天地創造に匹敵する、大いなる出来事です。
滅びるべき罪人が、神の子になるのですから。
それは、わたしたちの存在の根底から新しくなることです。
新しい創造です。
パウロは、一人の人がキリスト者となることをひたすらに追い求めました。
そのための労苦を産みの苦しみにたとえています。
なんとしてでも、神の子を産みたいのです。
神の子が生まれることを、パウロはさらに「キリストがあなたがたの内に形作られる」とも言い換えています。
キリストと結ばれ、キリストを着せられた者は、ますますキリストに似たものとされます。
キリストの形になっていきます。
キリストの恵み深さを映し出し、キリストの働きを担うようになります。
すべての人が小さなキリストになること。
世界がキリストの体である教会になること。それがパウロの願いであり、わたしたちの願いです。