2023年01月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
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*1月1日「命の中心」
ヨハネによる福音書2章13~22節
明けましておめでとうございます。
主の年2023年を迎えました。
この年の皆様の歩みに神の祝福がありますように。
神の光は御言葉を通して与えられます。
この年も御言葉に聞き続けてまいりましょう。
キリスト降誕祭の祝いを終え、ヨハネによる福音書を改めて読み進めます。
イエス・キリストがエルサレムに上り、神殿に入って商人たちを追い出してしまわれたという出来事です。「宮清め」と呼ばれます。
マタイ、マルコ、ルカの福音書(共通しているところが多いので「共観福音書」と言います)では、主イエスはずっとガリラヤ地方でのみ活動なさり、地上のご生涯の最後にエルサレムに上ったとされています。
エルサレムで最後の一週間を過ごされました。「受難週」です。
日曜日(棕梠の主日)にろばの子に乗ってエルサレムに入城し、月曜日に宮清めをなさいました。
ヨハネ福音書では、主イエスは三度エルサレムに上ったとされています。その最初が今回の箇所です。
おそらく主イエスは何度もエルサレムに行ったのでしょうし、何度も宮清めをなさったのかもしれません。
神殿の原型になったのは「神の幕屋」です。
出エジプト記25~29章には幕屋建設のための指示が書かれ、35~40章には実際の建設が語られます。
その書き方が示しているのは、幕屋は全世界の縮図として世界の中心に据えられるものだということです。
後にソロモン王が幕屋に代えて、エルサレムに神殿を建設しました。
その後、南王国ユダがバビロニアによって滅ぼされたときに、エルサレムの町は破壊され、神殿も瓦礫となってしまいました。
ペルシアの時代になり、バビロンに捕囚となっていた人々が帰還を許され、神殿を再建しました(エズラ記、ハガイ書)。
第二神殿と呼ばれます。
第二神殿はみすぼらしいものにすぎなかったので、ヘロデ大王が大掛かりな増改築工事を行いました。紀元前20年頃に工事をはじめ、ずいぶん長くかかったようです。
(ただし20節で「46年もかかった」というのは、ヘロデ大王の増改築のことではなく、ペルシア時代の建設のことではないかという意見もあります。)
神殿での礼拝こそが、ユダヤ人の生活の中心でした。
しかし、境内では牛や羊や鳩が売られ、両替が行われ、「商売」が盛んにおこなわれていました。
牛や羊や鳩は、神殿でいけにえとしてささげる犠牲獣であり、両替も、ローマ皇帝の像が刻印された貨幣を、神殿で受け入れられるフェニキア時代の貨幣などに交換するものでしたから、いずれも神殿礼拝に必要不可欠なことではありました。
そのように必要であるのに付け込んで、暴利をむさぼっていたのでしょう。
しかし、主イエスがなさったのは、正直な商売をするように求めることではなく、家畜を追い出し、両替の台を倒し、すべてをやめさせてしまうことでした。
主イエスの到来によって、人間が何かを神にささげる礼拝は終わりになったということでしょう。
また、人間のささげものは、純粋なささげものではなく、神の好意を買い取るための売り物であり、ささげものをすることで「商売」をしているのだということでもありましょう。
主イエスはそのような礼拝に断固として立ち向かってくださいました。
*1月8日「新しく生まれる」
ヨハネによる福音書3章1~12節
ニコデモという人物が登場します。
ファリサイ派の一員で、ユダヤ人の長老でした。
この人は「夜」、主イエスのもとに来ました。
ユダヤ人たちは、主イエスへの信仰を告白する者を会堂(シナゴーグ)から追放すると決めていたので、ニコデモは人目をはばかって、こっそりと主イエスを訪ねたのでしょう。
「会堂」は礼拝堂というよりも、ユダヤ人が共に生きるための集会所、公民館です。
会堂から追放されることは、ユダヤ人の共同体から追放されることを意味していました。
ですから、主イエスへの信仰を公にすることはためらわれることだったのです。
ニコデモはこの後、祭司長たちが主イエスに対して一方的な批判をするのに対して異議申し立てをします。
そして、主イエスが十字架につけられた時には、ついに堂々と主イエスのもとに来て、アリマタヤのヨセフと共に主イエスの葬りをしました。
3章でのニコデモはすでに主イエスを「ラビ」「神のもとから来られた教師」とは認めています。
しかし主イエスがどなたであるかがわかっていません。
主イエスはすぐに根本的な話をなさいます。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
わたしたちが罪人だからです。
ニコデモが考えたように、ただ教えを受けたり、修養したりするだけでは足りません。
罪はわたしたちの存在の根源にまで及んでいますから、わたしたちが神の子とされ、神の国を受け継ぐためには、わたしたちの存在の根源からすっかり改まらなければなりません。
新しく生まれなければなりません。
救いは、新しい創造の出来事です。
そして洗礼を受けるとは、この新しい創造、新しく生まれることが起こるということなのです。
*1月15日「神を愛し、隣人を自分のように愛する」※矢田洋子先生
マルコによる福音書12章28~34節
わたしたちの教会の協力牧師であり、東京神学大学の講師である矢田洋子先生が説教奉仕をしてくださいます。
律法学者が主イエスに尋ねます。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
旧約聖書の律法の中には、ユダヤ教の数え方では613の命令があるのだそうです。
それらの613の命令のうちで、もっとも大切なのはどれか、という問いです。
もっとも大切なのはどれかと問われたのですが、主イエスは二つの掟を挙げました。
神を愛すること と 隣人を愛すること です。
これらの掟は、ユダヤ教のラビたちも重んじている掟でした。
しかし、これらの二つの掟を並べ、二つの掟を結びつけたところは、たいへんユニークです。
心のすべてを傾けて神を愛することは、隣人を忘れてしまうことではなくて、神が大事にしていてくださる隣人をわたしも愛することです。
そして隣人を愛することは、神なしにできることではなく、力を尽くして神を愛して初めて本物になることです。
この愛の二重の掟を「最大戒」と呼ぶこともあります。
さらには、礼拝のたびごとに、皆で声をそろえて唱える教会もあります。
この大切な教えを心深く受け取りましょう。
*1月22日「永遠の命」
ヨハネによる福音書3章13~21節
夜、ニコデモという人物が主イエスのもとに来て、対話が始まりました。
しかしニコデモの姿はいつの間にか消えてしまい、主イエスの対話の言葉はいつの間にかモノローグに変わります。
しかも、主イエスがずっと語り続けておられるのか、途中から聖書を書かせた聖霊の語りに変わったのか、それとも教会の言葉なのか、それもはっきりしません。
もはやニコデモのための言葉ではなく、わたしたちに直接語りかける言葉であることは確かです。
「永遠の命」という言葉が出てきます。
キリスト教が伝える救いは「永遠の命」だと思われているかもしれませんし、たしかにそのとおりですが、しかし聖書の中には「永遠の命」という言葉はあまり出てきません。
聖書の中でも特別な言葉なのです。
「永遠の命」とは、今わたしたちが生きている命が無限に延長されることではありません。
わたしたちはそもそも、「永遠の命」とは何であるのかがわかりません。
「永遠」も、「命」も、まずは神ご自身とかかわります。
神こそが永遠であり、神こそが生きておられるお方です。
「永遠の命」とは、まず何よりも、神と共に生きることであるに違いありません。
神と共に生きる時にこそ、本当に生きることになるからです。
わたしたちが「新たに生まれ」させていただいたのは、神と共に生きるためです。
*1月29日「花嫁であるキリスト」
ヨハネによる福音書3章21~30節
洗礼者ヨハネは「洗礼運動」ともいうべき運動を起こし、ヨハネのもとには多くの弟子たちがいたようです。
ヨハネは主イエスを指さして「見よ、神の小羊だ」(1:36)と証しし、自分の弟子たちを主イエスのもとに送ってしまいました。
ヨハネのもとにいた者たちがどんどん主イエスのもとに行ってしまうことを、快く思わないヨハネの弟子もいたようです。
「みんながあの人の方へ行っています」(3:26)という言葉には、いささか不満の響きがあるようです。
しかしヨハネは言います。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3:30)。
元の言葉を直訳すると、「あの方は大きくなり、わたしは小さくならねばならない」とあります。
自分が小さくなり、消えていくことをヨハネは喜んでいます。
「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれる絵があります。
イーゼンハイムの修道院に付属する施療院に置かれていたものです。
(今日ではコルマールの美術館に展示されています。)
中央には、十字架にかけられた主イエスが描かれています。
その右には、(実際にはすでに処刑されていて、この場面にはいませんでしたが)洗礼者ヨハネが描かれています。
ヨハネは大きな右手で主イエスを指さしています。「見よ」と言っているかのようです。
その大きな右手のところに、よく見ると文字が書かれています。
ラテン語で「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と書いてあるのです。
マタイ、マルコ、ルカの福音書は、ヨハネが荒れ野で叫ぶ者の「声」だったと言いました。
ひととき響いて、すぐに消えてしまう「声」です。
ヨハネ福音書も「衰えねばならない」という言葉で、同じことを言っています。
しかし、ヨハネ福音書が強調するのは、ヨハネの喜びです。
花婿である主イエスを指さし、主イエスを紹介し、主イエスの声を聴いて、ヨハネはこの上なく喜んでいます。喜んで消えていきます。
イーゼンハイム祭壇画(第1面) グリューネヴァルト(コルマール、ウンターリンデン美術館 )
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