★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
創世記18章20~33節
「ソドムとゴモラ」と言えば、背徳の町として、
そしてそれゆえに天からの火によって滅ぼされてしまった町として有名です。
しかし神はこれらの町をいきなり滅ぼしてしまわれたわけではありませんでした。
神はアブラハムにそのご計画を打ち明けてくださいました。
アブラハムはすぐにソドムのために祈り始めます。執り成しの祈りです。
「ソドムの町といえども、すべてが悪い人ばかりではないでしょう。正しい人もおりましょう。
正しい人を悪い者と一緒に殺してしまうのは、あなたの正しさと食い違うのではありませんか。
正しい者が50人いても、町ごと滅ぼしてしまうのですか。」
神はお答えになります。
「ソドムの町に正しい者が50人いるならば、町全部を赦そう。」
驚くべきことに、ここからアブラハムは値引きの交渉を始めます。
「正しい者は45人かもしれません。
50人にちょっぴりだけ足りなかったからと言って、町のすべてを滅ぼすのですか。」
…
アブラハムが重ねていく問いは、神の憐みの心の大きさをぎりぎりまで知ろうとする冒険であるかのようです。
アブラハムは恐れおののきながらも、ソドムの救いを求めて祈り続けます。
しかし実は、ソドムの救いをアブラハムよりももっと願っていてくださったのは神ご自身でした
創世記22章1~14節
「イサク奉献」と呼ばれる出来事です。
アブラハムには長く子どもが与えられませんでした。
願い続けて、年老いてしまってからついに与えられたのがイサクです。
そのイサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神はお命じになります。
アブラハムの心の中にどれほどの嵐が吹き荒れたことでしょうか。
しかしアブラハムは静かに神の言葉に従います。
神がお命じになった場所に向かう途中で、献げ物になるはずのイサクが問います。
「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムが答えます。
「きっと神が備えてくださる。」
「備える」と訳された言葉のもともとの意味は「見る」です。
神が見ていてくださる。
神はわたしたちに身を向けて、見ていてくださいます。
わたしたちの必要を知り、わたしたちの嘆きを聞いておられます。
そして、わたしたちが願ったり期待したりすることよりも、もっとよいものを用意していてくださいます。
きっと神が備えてくださる。
だからわたしたちは、恐れずに前に進んでいくことができます。
創世記28章10~22節
「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
こう語ったのはヤコブです。
彼は何もない場所で石を枕にして野宿をしていました。
旅の途中です。逃亡の旅です。
父をだまし、兄を出し抜き、恨みを買って逃げていくところです。
今やヤコブには何もありません。
何もないどころか、取り返しのつかない過ちを犯し、何もかもを台無しにしてしまいました。
そのヤコブが夢を見ます。
先端が天まで達する階段です。
神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていました。
そして神が言われます。
「わたしはあなたと共にいる。」
ヤコブが、何か特別な場所に迷い込んだということではないのです。
そうではなくて、愛する者から離れ、大切なものをなくし、将来も失って、
もう自分には何もないと思ったとしても、
さらには大きな罪を犯し、神からも捨てられ、
すべてのものから逃げ出して独りぼっちになったと思ったとしても、
そこでも天の門は開いており、そこにも神の家があり、そこでも神が共にいてくださるということです。
わたしたちが何をしても、どれほど変わり果てても、
「わたしはあなたと共にいる」とお語りくださる神の言葉は変わりません。
創世記32章23~32節
兄のもとから逃げ出し、20年間も親戚のもとに身を寄せていたヤコブが、兄のもとに帰っていきます。
いよいよふるさとが近づいてきます。
兄が大勢のお供を連れてこちらに向かってくるという知らせが届きます。
ヤコブは非常に恐れ、思い悩み、全滅することを避けようと、あらゆる手立てを講じ始めます。
財産を二組に分ける。兄にたくさんの贈り物をする。さらに第二、第三の贈り物もする。
それでも不安はなくなりません。
すべての手を尽くし、家族を送り出し、ヤコブは独り後に残ります。夜です。
その時何者かがヤコブに襲いかかり、夜明けまで格闘しました。
それは神の使いでした。
神は力ずくで襲いかかってくるという仕方で、ヤコブがご自分の方を向くようになさいました。
ヤコブは必死にしがみついて願います。
「祝福してくださるまでは離しません。」
神の使いは、もちろんヤコブを突き放してしまうことができたでしょう。
しかし、襲いかかり、格闘をしながら、実は神はヤコブがご自分にしがみつくようにさせ、
それどころかヤコブをしっかりと支え、とらえ続けていてくださったのでした。