★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
使徒言行録2章1~11節
本日は「聖霊降臨祭」です。
キリストの復活から50日目に、キリストが約束してくださったように聖霊が降りました。
そのことを記念する日です。
聖霊降臨祭を「ペンテコステ」とも言います。
この出来事が起きたのは、「五旬祭」というユダヤ人の祭りの日のことでした。
「五旬祭」をギリシア語で「ペンテコステの祭り」と言います。
「ペンテコステ」は文字どおりには「五十番目の」という意味です。
五旬祭(ペンテコステの祭り)の日に聖霊が降りました。
この日の出来事を語るのが使徒言行録2章です。
聖霊が降り、集まっていた弟子たち一人一人の上にとどまりました。
その時から、弟子たちの姿が一変してしまいます。
キリストを見捨てて逃げてしまい、今も自分たちだけで閉じこもっていたのに、祭に集まっている群衆のところに出て行き、大胆にキリストを宣べ伝えるようになりました。
苦しみと死を恐れてキリストを裏切ったのに、殉教さえいとわないようになりました。
キリストと身近に接していても、この方がどなたであるかわからず、ましてや十字架にどんな意味があるか予感さえしていなかったのに、キリストが神の御子であり、十字架の死によってわたしたちを罪から救ってくださったのだと、はっきりと捉え、信じ、語るようになりました。
これらのすべては、聖霊が与えてくださったことです。
ペンテコステの聖霊は、わたしたちにも働いてくださいます。
ヘブライ人への手紙9章15~28節
キリストは
「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12)。
「キリストの血は、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(9:14)。
すでにこのように語られていました。
主イエス・キリストは十字架にかけられ、血を流し、命を注ぎ出してしまわれました。
あの時、何が起きたのでしょうか。
キリストの死は、わたしたちとどう関係するのでしょうか。
今回の箇所では、こう言われています。
「キリストは天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(9:24)。
これが、十字架の死によって行われたことでした。
ご自分の血を携えて神の前にお立ちになり、わたしたちの罪を取り除いてくださった。
血は命です。
わたしたちが清められ、神に近づくことができるようになるためには、キリストの命が必要でした。
神の御子、キリストの命をもって、わたしたちの罪を取り除く償いがなされました。
それは、すでに成し遂げられています。
わたしたちに残されているのは、感謝をもってこの救いを受け取り、キリストをほめたたえることだけです。
ヘブライ人への手紙10章1~18節
とても古くから言われてきた言葉があります。
「祈りの形は、信仰の形である。」
神をどのように礼拝しているかが、神をどのように信じているかを表している。
お賽銭をささげて、それから願い事をする。そういう祈りの形があります。
動物をいけにえとしてささげて、犯された罪の償いをする。そういう祈りの形もあります。
それなら、わたしたちの礼拝は、どのような形をしているのでしょうか。
その形は、どのような信仰を表現しているのでしょうか。
わたしたちの礼拝は、「神の語りかけ」と「わたしたちの応答」が繰り返されることで成り立っています。
神はわたしたち一人一人を重んじ、言葉をもって語りかけ、人格的な交わりを持ってくださると信じるからです。
わたしたちの礼拝は、わたしたちが祈りと賛美で応答するよりも、説教と聖餐を通して語りかけてくださる神の言葉を受け取ることを、もっと大切なこととします。
神は要求する方であるよりも与える方であり、一方的に恵み、お救いくださると信じるからです。
キリストが唯一の献げ物です。
キリストによって、わたしたちは永遠に完全な者とされます。
わたしたちは、何とかして救いを得ようと、そのために献げるのではなく、ただひたすらにキリストにより頼みます。
ヘブライ人への手紙10章19~25節
救いに必要なすべてのことは、主イエスによってすでに成し遂げられています。
「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(19節)。
ところが、わたしたちの心はそれがなかなか信じられません。
ほんとうに救われるのだろうかと不安になります。
自分の敬虔さや善行の方が手ごたえがあり、たしかであるように感じます。
そのようなわたしたちに御言葉は呼びかけます。
「偉大な祭司キリストを信頼しきってしまおう」(22節)。
キリストがおられるのだから、すべての思いをキリストに投げかけて、祈ろう、というのです。
そして「希望をしっかり保とう」(23節)。
自分を見つめるのをやめて、キリストを見つめよう。
キリストがしてくださったことを見つめて信じるだけでなく、キリストがやがて来て、救いを完成してくださることに望みを置き、その望みに踏みとどまろう。
何度でも自分に言い聞かせ、自分に説教し続けよう。
そしてさらに「集会を怠らず、励まし合おう」(25節)
一人で信じるのではなく、共に礼拝をささげ、共に歩んでいこう。
わたしたちは、自分で神の国にまでたどり着かなければならないわけではありません。
キリストが再び来てくださいます。
救いを完成し、わたしたちを神の国に招き入れるために来てくださいます。
その日に向かって、祈り、自分に説教し、共に礼拝しながら歩んでいきます。