2022年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*7月3日燃え上がる神の熱情」 

ヘブライ人への手紙10章26~39節


ヘブライ人への手紙を受け取った教会は、迫害に遭っていました。

あざけられ、苦しめられ、財産を奪われることもありました。

そのために教会から離れ、「集会を怠る」(25節)人たちが出てきました。

それどころか、信仰を捨ててしまう人たちもいました。


けれども、信仰を捨てることは、主イエスを捨てることです。

主イエスを「足げにする」ことです(29節)。

自分一人の話ではないのです。


わたしを愛し、わたしのために血を流して死んでくださった方を裏切り、捨てるのか。

信仰が薄く、裏切ってばかりのわたしを、だからこそさらに愛し、追い求め続けてくださるお方から離れたままでいるのか。


主イエスを仰ぐときに、忍耐する思いが生まれてきます。

さらに、弱いわたしたちに約束が与えられています。


「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。

遅れられることはない。」(37節)


いつまでも続く苦しみに耐えることはできません。

しかし、幸いなことに、苦しみの時は限られています。

もう少しすると、苦しみは終わります。

だから、ここに踏みとどまって、待ち続けます。

わたしたちが一歩も前進できないとしても、主イエスがわたしたちのところにまでおいでくださるからです。

*7月10日「神の将来へと生きる」 

ヘブライ人への手紙11章1~16節


信仰と希望と愛とは結びついています。

すべて、神との関係を告げる言葉です。

神を信じて神に頼り、神にあって望みを持ち、神を愛します。


わたしたちは信仰者として、やはり「信仰」のことに関心を持ちます。

「信仰」とは、神がここにおられると信じることです。

神が良いものを与えてくださると信じることです。

その神により頼み、神にしがみつくことです。

しかし、それで終わりではありません。その先があります。


「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(1節)


信仰とは、希望を持つこと。希望によって生きること。神の将来を生きることの土台にすることだというのです。

ヘブライ人への手紙11章には「昔の人たち」(2節)、つまり旧約聖書に出てくる人たちが次々と登場します。

彼らを見ると、信仰とは何かがわかる。

信仰によって生きるとは、希望をもって生きることなのだとわかるということです。

それは、旅をしながら生きることです。

神の国に入ることを望みとしながら、神の国に向かって旅をしていきます。

自分の安住の場所も、自分の計画も手放して、神にゆだねて旅をします。

わたしたちの住まいは、神の国にすでに用意されています。

*7月17日「試練に生きる信仰」

ヘブライ人への手紙11章17~40節


ヘブライ人への手紙11章の前半には、「信仰によって神に服従した人たち」のことが語られました。

後半には、「苦しみによって試みられた者たち」のことが語られています。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネは旧約聖書の「創世記」12章以下に出てきます。

モーセのことは「出エジプト記」で語られています。

モーセといえば、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を率いてエジプトから脱出させ、荒れ野の旅を導き、また民に神の律法を与えた人です。

この人の歩みの秘密は、「目に見えない方を見ているようにして」生きることでした(27節)。


32節以下には、苦しみから助け出された人たちのことが語られています。

しかし、そのような人たちばかりではありません。

続いて36節以下には、苦しむばかりであった人たちのことも語られます。

この手紙は、苦しみの中でひるんでいる者たちを励ますために書かれているのですけれども、「信仰があれば、苦しみはなくなる。すべてうまくいく。幸せになれる」とは語りません。

地上を生きる限り苦しみがあります。

しかし、どのような苦しみの中でもなくなることのない喜びがあります。希望があります。

苦しむ時にも神が共にいてくださり、よい終わりを備えていてくださるからです。

*7月24日「信仰の創始者また完成者」

ヘブライ人への手紙12章1~13節


神を信じる者は、地上ではよそ者であり、仮住まいの者なのだと語られました(11章13節)。

天の故郷を目指して旅を続けるのだというのです。

今日の箇所では、信仰者の生活は「競争」だと言われています(1節)。

「競争」と言っても、他の人とスピードを競うわけではありません。

競争相手を打ち負かさなければならないというのとは違います。

生涯をかけた長距離走です。

目標を目指して走り続けます。

それなら、どこが「目標」なのでしょうか。

どこに向かって走ればよいのでしょうか。

こう言われています。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(2節)。


わたしたちは、ただ主イエスを信じていたらよいのです。

ただ信仰のみによって、神から「それでよい」と言っていただけます。

しかも、その信仰もまた、主イエスが与えてくださるものです。

だから、主イエスが「信仰の創始者」なのだと言われています。

主イエスから信仰を与えられ、この方に信頼し、この方を愛し、この方を見つめ、この方にお従いして生きていきます。定められた道を走り抜いていきます。

ゴールにまで到達しなければならないわけではありません。

わたしたちの道がどこで終わるとしても、そこは道の途中です。
わたしたちの人生は未完成で終わります。

けれども、そこに主イエスがいてくださり、主イエスがわたしたちの信仰も、わたしたちの人生そのものも完成してくださいます。

主イエスが「信仰の完成者」でいてくださるのです。

だからわたしたちは安心です。

わたしたちは、自分の人生を自分で完成させなくていい。

ただ主イエスを見つめながら、走り抜いたらいいのです。

*7月31日「わたしたちの神は焼き尽くす火」

ヘブライ人への手紙12章14~29節


「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(29節)。


厳しい言葉です。しかし、大切な言葉です。

「信仰」は、生きておられる神との生きた関係です。
人格的な関係です。

神が救い、いやし、慰めてくださいます。

わたしたちはその神を喜び、神に頼り、神にお従いします。


ところが、「信仰」はいつでも、そのような生きた関係であることをやめて、人間の「お勤め」になり、「儀式」になり、「決まり事」になります。

人間のわざという意味での「宗教」になってしまうのです。

「宗教」になってしまう時に見失うのが、神が「焼き尽くす火」であられることです。

神に近づくことは危険なことであり、恐ろしいことだということです。

神への畏れを失うとき、信仰は信仰でなくなっています。


わたしたちの神は焼き尽くす火であられます。

それは、熱情の神、わたしたちに向かって心を燃え上がらせ、ねたむほどに愛する神でいてくださるということです。

わたしたちの罪を焼き尽くし、わたしたちをきよめ、新しくしてくださるということです。

神に近づき、神の炎の中にとどまりましょう。