2020年01月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は、讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*1月5日
ルカによる福音書18章9~14節
説教「ただ一人、神の前へ」
主の年2020年を迎えました。
わたしたちには将来を見通すことはできませんが、
わたしたちの時は神の御手の中にあります。
神がわたしたちの人生によい計画を持っていてくださり、
わたしたちが歩むべき道を備えていてくださることを信じて、
まなざしを上に上げ、一筋の心をもって歩んでまいりましょう。
主イエスのたとえ話です。
信仰深いファリサイ派の人は神の前で自分の立派さを並べ立て、神に感謝しました。
同胞を苦しめているために嫌われている徴税人は、
神に近づくことができず、遠くに立ち止まり、顔を伏せ、
胸を打ち叩きながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と願いました。
神がそれでよいとしてくださったのは、徴税人の方だというのです。
わたしたちが普通に考えるのとは、
まったく反対のことを主イエスはお語りになります。
神の前に自分の立派さやよい行いを持って行く必要はないし、
人と比較することもいらない。
ただ一人で神の前に出て、神の憐れみを願い求めたらいいというのです。
わたしたちは、自分や自分の持っているものをよりどころにして安心しようとします。
しかし、わたしたちがほんとうに安心できるのは、神の憐みがたしかだからです。
*1月12日
ルカによる福音書18章18~30節
説教「まだ一つ欠けているもの」
高い地位と権力を持ち、たいへんな金持ちで、
信仰深い生活をしている議員が主イエスのもとに来ます。
この人はさらなる高みを目指して、主イエスに問いかけます。
非の打ちどころがないように見えるこの議員に向かって主イエスは
「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。
たった一つです。たった一つだけれど、欠けているものがある。
そう言って主イエスは、財産も家族も手放してしまうことをお求めになりました。
この議員は主イエスの言葉に応えることができず、
深く悲しみつつ立ち去ることになりました。
厳しいことです。
財産も家族も手放すとはどういうことなのでしょうか。
それが救いの条件だということではないはずです。
それならなぜ主イエスは議員にそのことをお求めになったのでしょうか。
この議員と主イエスの弟子たちとはどこが違っていたのでしょうか。
*1月19日
ルカによる福音書18章31~43節
説教「見えるようになりたい」
目の不自由な人が主イエスに「わたしを憐れんでください」と叫び続けます。
主イエスは立ち止り、その人をそばに招き、
「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。
この人は目が不自由で、そのために苦労しているのですから、
見えるようになりたいのだということは、問うまでもないように思われます。
まして主イエスは、この人の心の思いをよく知っておられるはずではないでしょうか。
しかし主イエスはこの人の正面にお立ちになり、
「何をしてほしいのか」と問われます。
主イエスとまっすぐに関係を持ち、主イエスに求め、
主イエスから受け取るように。
主イエスとの深い交わりのうちに生きるようにとお招きになります。
主イエスはわたしたちにも問うておられます。「何をしてほしいのか。」
わたしたちも答えます。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」
*1月26日
ルカによる福音書19章1~10節
説教「見出される喜び」
新約聖書には「徴税人」が何人も登場します。
徴税請負人です。
ローマ帝国は徴税にあたって、ローマ人の役人がそれを行うのではなく、
ローマに征服された人々自身の中に徴税請負人をおきました。
徴税請負人は、お金を払って徴税権を得ます。
いわば、税金の建て替えて納めてしまうわけです。
その上で、人々から税金を取り立てて歩きます。
先に多額のお金を前納していますから、
税金をきちんと回収できなければ、赤字にもなります。
給料や手数料、経費などはローマから支払われるわけではなく、
自分の裁量で取り立てる額に上乗せすることで得なければなりません。
だから必死になって税金を取り立てたのでしょう。
厳しく取り立てを進めれば、金持ちになることができました。
しかしそんなことをすれば、税金を多く取り立てられた人たちからは忌み嫌われたことでしょう。
ザアカイは「徴税人の頭」です。
人々はザアカイのことを、もはや仲間ではなく、
神の民の一員でもないと思っていたに違いありません。
ところが主イエスはまっすぐザアカイのもとに行き、ザアカイの家の客になりました。
神はザアカイから目を背けてはおられませんでした。
救いがザアカイの家を訪れました。