2021年12月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*12月5日 「近づいてくる方を迎えよう」
マタイによる福音書3章1~12節
降誕祭(クリスマス)に備え、イエス・キリストの再臨を待ち望む待降節を過ごしています。
待降節は日曜日を4回過ごします。
今日は待降節の2回目の日曜日。
アドヴェントクランツには、2本のろうそくに火をともします。
待降節にあたって、洗礼者ヨハネを語る聖書の言葉を読みます。
洗礼者ヨハネはキリストの先駆者であり、キリストを迎えるための準備をした人です。
キリストの到来を待ち望み、一人でも多くの人と一緒にキリストを迎えようとしました。
そのために、とても厳しい説教をしました。
そして人々に洗礼を授けました。
洗礼は清めの儀式です。
この時代の洗礼は、異邦人がユダヤ教に改宗する時にだけ行われていました。
だから、ユダヤ人は洗礼を受けることはありませんでした。
しかしヨハネは、ユダヤ人たちも悔い改めて、洗礼を受けるようにと勧めました。
教会も洗礼を授けます。
洗礼を受ける人は、水の中に沈められて、古い自分に死に、キリストと共に新しく生きます。
神に向かって真っすぐに生きる、新しい命がここにあります。
*12月12日 「神の前で目を覚まして」
マタイによる福音書24章36~44節
待降節の3番目の日曜日です。
アドヴェントクランツには、3本のろうそくに火がともります。
待降節は降誕祭を迎える準備をするとともに、世の終わりに主イエスが再び来てくださることを覚えて、主の到来に備える期節でもあります。
わたしたちの命の終わりも、そして世の終わりも、その日、その時がいつであるのか、わたしたちにはわかりません。
しかし、「父は知っていてくださる」と主イエスは言われます。
知っているだけではありません。
その時のために準備をし、わたしたちを待っていてくださいます。
だからこそ、「目を覚ましていなさい」と主イエスは言われます。
わたしたちがいつも気を張って、終末に備えていなければならない、ということではありません。
そうではなくて、「目を覚ましている」とは、神が「父」でいてくださることに目覚めているということです。
父が良い終わりを備えていてくださることに目覚めているということです。
主イエスが再び来てくださり、わたしたちを父の家に入れてくださいます。
その日、その時を待ち望みながらわたしたちは生きます。
*12月19日 「ただその方を拝むために」※降誕祭礼拝
マタイによる福音書2章1~12節
占星術の学者たちが東の方からやってきます。
東方と言いますと、この時代はバビロンやペルシアを指しました。
実際、それらの地域では占星術が盛んでした。
占星術というと、いかがわしいもののように聞こえるかもしれませんが、当時は立派な学問でした。
星を観察して、何とかしてこれからの世界の成り行きを知ろうとしました。
しかし、バビロンやペルシアでは立派な学問であったとしても、ユダヤ人は占星術に手を出しませんでした。
律法で禁じられていたからです。
世界と歴史を支配しているのは、星々ではなく、ただ一人の神だからです。
だから「占星術の学者たち」というのは、この時代の最高の知識人たちであり、しかしまことの神を知らない異邦人たちでした。
バビロンやペルシアから来たのだとすれば、千キロにも及ぶ道のりです。
彼らは、行き先を知らないままに旅立ち、ただ星の輝きだけを頼りにして旅を続けてきました。
ただその方を拝むために。ただその一事のためにです。
そして、幼子である主イエスに会い、ひれ伏して拝み、宝の箱を開けて贈り物をささげました。
「クリスマスChristmas」という言葉は、「キリストChrist」という言葉と、「礼拝mas」という言葉から成り立っています。「キリスト礼拝」です。
神がこんなに小さくなり、人間の赤子になって、わたしたちのところに来てくださいました。
それを知らされた者たちは、ひれ伏して拝み、自分の宝をささげました。
まさにキリスト礼拝です。
キリストを礼拝する時、人生が変わります。
愛し、与える人生が始まります。
*12月24日(金) 「待ちつつ、急ぎつつ」 ※クリスマス夕べの礼拝
クリスマスは夜の出来事です。
東の方から来た占星術の学者たちは星に導かれて旅をし、幼子の主イエスを探し当てました。
羊飼いたちは野宿をしていたときに天使から救い主の誕生を知らされました。
そのことを覚えて、降誕祭の礼拝はしばしば夕べに、さらには深夜に祝われてきました。
わたしたちの教会も、24日の午後6時30分から「クリスマス夕べの礼拝」を祝います。
クリスマスの出来事に居合わせたのは、待ち続けていた人々です。
主イエスの母となったマリアは、まだ結婚していないのに身ごもり、思いまどいながら出産の時を待ちました。
羊飼いたちは、闇の中にうずくまりながら、神が自分たちを御心に留めてくださるのを待っていました。
シメオンは神の民が慰められるのを待ち望みながら、もう高齢になっていました。
待つことはつらいことです。
その時がいつであるかも、それがどのように実現するのかも、ゆだねなければなりません。
ですから、待つとは、信じることです。信じ続けることです。信じるのをやめないことです。
そしてその時が来たならば、すぐに立ち上がって走り出します。急いでいきます。
神を待ちつつ、神のもとに急ぎつつ生きる。
これが神を信じる者の姿です。
*12月26日「わたしの魂を神の御手に」
ペトロの手紙一、4章17~19節
待降節になって中断していましたが、ペトロの手紙一に戻ります。
2021年最後の日曜日となりました。
一年の終わりにあたって、この身言葉を与えられました。
「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(19節)
聖書が語る「魂」は、「命」そのもののことです。「自分自身」と言ってもいいのです。
あなたの命を造り、命を支え続けていてくださるお方に、あなたの命をゆだねなさい。
神は、わたしたちの命に関心をお持ちです。
目を凝らして見つめ、わたしたちをつぶさに知っておられます。
わたしたちに必要なものを用意し、わたしたちがそれを神に求めるのを今か今かと待ちながら耳を澄ませておられます。
わたしたちが自分で心配するよりも、もっと深く心を騒がせて、わたしたちの命について心配していてくださいます。
「裁き」という言葉が出てきます。
これは、神がわたしたちの命のために最後まで責任をお取りになり、わたしたちが抱えている負債を最後まで清算し、わたしたちの罪を最後まで解決してくださるということにほかなりません。
だからわたしたちは自分の命を神にゆだねます。
神の裁きにゆだねます。
そのようにしてのみ、命の完成があるからです。