2021年05月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*5月2日 「天上の生活を生きる」
コロサイの信徒への手紙3章12~17節
成瀬が丘教会は2021年度の教会標語を「御言葉に聞き祈る教会」としました。
そして、コロサイの信徒への手紙3章16節を年間の聖句として掲げて歩み出しました。
本日は年間聖句を覚えて礼拝を献げます。
主イエスはあるとき、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と言われました。
わたしたちは主イエスにつながっていて、樹液が枝にまで通うように主イエスの命がわたしたちに通い、
だからわたしたちは豊かに実を結ぶのだというのです。驚くべきことです。
しかしこれが、洗礼によってわたしたちに与えられている現実です。
コロサイ書も同じことを語ります。
「キリストに根を下ろして造り上げられなさい。」(2:7)
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(3:3)
では、どうしたらわたしたちがキリストの内にとどまることができるのでしょうか。
またキリストがわたしたちの内にとどまってくださるのでしょうか。
それは、キリストの言葉によります。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(16節)
キリストの言葉を聞くときに、わたしたちはただ教えを学ぶのではありません。
お語りくださるキリストご自身がわたしたちにとどまってくださいます。
互いに御言葉を告げること、そして共に賛美すること。
それによって御言葉がわたしたちの魂の深い所にまで届き、御言葉と共に聖霊が働き、
キリストが宿ってくださいます。
*5月9日 「あなたは約束の子」
ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節
アブラハムは旧約聖書の創世記に出てくる人物です。「信仰の父」と呼ばれます。
神を信じ、神の約束を信じて生きた人です。
アブラハムに与えられた約束の一つが「あなたは多くの国民の父となる」(創世記17:4)
というものでした。
しかし、その時までアブラハムには子がなく、アブラハムも、妻のサラもすでに高齢になっていました。
そこでアブラハムとサラは、自分たちの知恵や努力で神の約束を実現させようとします。
女奴隷のハガルをアブラハムの側女とし、ハガルによって子を得ようとしたのです。
ハガルは子を産みますが、その子は肉による子であって、約束の子ではありませんでした。
アブラハムとサラに子が生まれることは、ありえないことでした。
人間的に考えれば、可能性はゼロでした。
だからこそ、ハガルによって子を得ようともしました。
しかし神は約束のとおりに、サラに子を産ませてくださいました。
わたしたちが神の子となることは、サラの出産以上にあり得ないことです。
ただ、神の約束によって、わたしたちは神の子とされます。
もうすでに、神の子とされています。
*5月16日 「愛によって働く信仰」
ガラテヤの信徒への手紙5章1~12節
「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(6節)
2018年に出た新しい聖書の訳ではこうなっています。
「愛によって働く信仰こそが大事なのです。」
「愛の実践を伴う信仰」とか「愛によって働く信仰」とかと言われると、
わたしたちはすぐに自分の愛を考え、自分の信仰を考えます。
そして、自分の愛の貧しさを嘆き、自分の信仰の乏しさに不安になります。
しかし、聖書を読むときには、前後の文脈をきちんと読むことが必要です。
この手紙がずっと語っているのは、「律法」の問題です。
律法に従って自分が愛を実践すること。
律法が命じるとおりに信仰深く生きていること。
そのようにして律法に頼り、自分の力に頼ることは、キリストの福音とは違うというのです。
ここで大切だと言われているのは、キリストの愛であり、キリストの信実です。
キリストが愛してくださったのです。
キリストが愛のゆえに、わたしたちに信実であり通してくださり、
わたしたちのために死んでくださったのです。
だからこそ、わたしたちもキリストを愛し、キリストに頼らずにはいられなくなりました。
大切なのは、わたしの中に何があるかではありません。
大切なのは、キリストとの関係です。
キリストとの交わりがあります。
愛の中で、お互いに信実である交わりです。
この交わりの中に立ち続けたらよいのです。
*5月23日 「愛によって生きる」 ※聖霊降臨祭
ガラテヤの信徒への手紙5章13~26節
本日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
もともとは過越祭から七週目に祝われる七週祭(五旬祭)と呼ばれるユダヤ教のお祭りでした。
しかしこの日に主イエスが約束してくださったとおりに聖霊が降り、
教会が誕生したので(使徒言行録2章)、
キリスト教会はこの日を聖霊降臨祭として祝うようになりました。
キリスト降誕祭(クリスマス)、キリスト復活祭(イースター)と並ぶ、
教会の大切なお祭りです。
この日に当たって、特別な聖書の箇所を読むことも考えました。
しかし、ガラテヤの信徒への手紙を、章を追い、節を追いながら読んできて、
今回の箇所はちょうど聖霊に導かれた生活について語り、
聖霊が結ぶ実について箇所ですから、
聖霊降臨祭に読むのにまことにふさわしいと思い、
そのままこの箇所を読むことにしました。
ガラテヤの信徒への手紙はキリストの福音を明快に語ります。
福音とはキリストです。
キリストはわたしたちを罪の力から自由にしてくださった。
大切なのは、ただキリストを見つめ、キリストに頼ることです。
そこで残る問題は、この自由をどう使うか、どう生きるかです。
わたしたちは自由を自分のために、自分の欲望のために使ってしまいます。
しかしそれでは欲望の奴隷になっているだけで、ほんとうは不自由です。
反対に、ほかの人を生かすために仕えること、愛のゆえに奴隷となることこそ、
本当の自由なのだとこの手紙は語ります。
もちろん、愛し、仕えることは、わたしたちにできることではありません。
キリストこそが愛し、仕えてくださいました。
わたしたちはここでも、ただキリストを見つめ、キリストに頼り、キリストに結ばれて、
ささやかに愛し始めます。
*5月30日 「互いに重荷を担いなさい」
ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
「互いに重荷を担いなさい」(2節)と言われています。
自分自身の重荷さえも負いきれないでいるのに、ほかの人の重荷など担えるものでしょうか。
共に倒れてしまうだけではないでしょうか。
キリストがおられないならば、そうなるしかありません。
しかし、キリストは重荷の担い手でいてくださいます。
わたしの罪、弱さと過ち、愚かさと醜さ、
すべてをご自分のものだと言って引き受けてくださいました。
すべての罪はキリストによって担われ、取り除かれています。
わたしたちが担うのは、罪の残りかすのようなものであり、
戦いが終わった後の敵兵のようなものです。
その重荷を互いに担い合って、わたしたちは共にキリストのもとに行きます。
キリストのもとに赦しがあり、安息があるからです。