2021年10月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*10月3日 「すべてを完成させるきずな」

コロサイの信徒への手紙3章12~17節


成瀬が丘教会はコロサイの信徒への手紙3章16節を今年度の聖句としています。


「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、

諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」


2021年度もすでに半分が過ぎました。

今年度下半期を迎えるにあたり、今年度の聖句を改めて覚えて礼拝を献げます。

コロナ禍のもとでの歩みは間もなく丸二年になろうとしています。


2020年度は感染防止のため多くの制約を受けながらの苦しい歩みでした。

そのまま2021年度を迎えるにあたり、わたしたちの教会が掲げたのが冒頭の聖句でした。

集まることが妨げられています。

そのため、親しく交わりを持つことがなかなかできません。

一緒に食事をとることも控えています。

どうしても活動が減ってしまいますし、新しい人を招くこともしにくいです。

マイナスを数え上げればきりがないほどですが、それでも、今この時をチャンスともとらえたいと思います。


立ち止まり、静かになり、これまでの歩みを点検し、正す時です。

日々、御言葉に聞き、祈ることを身に着け、定着させる時です。

御言葉をもっと深く味わい、もっと喜ばしく賛美することを経験する時です。

キリストの言葉が心に宿るために、教えたり、学んだりするというのはすぐにわかります。

賛美することによって、キリストの言葉が心に宿ることになる、というのは、意外な言葉です。

しかし、そのとおりです。

賛美によって、御言葉が心の中にしみこんでいくように、

また、心の中に宿っている御言葉があふれ出して、賛美の歌になるようにと願います。

*10月10日 「立ち帰って生きよ」 伊藤多香子先生

エゼキエル書18章30~32節


特別な説教者として、関東学院六浦中学・高等学校で聖書を教えておられる伊藤多香子先生が説

教をしてくださいます。

預言者エゼキエルの時代、南北に分裂したイスラエルの二つの王国のうち、
北王国はすでに滅びており、南王国もほとんど滅びかけていました。

エゼキエルは王や高官たちと共に捕囚となって、すでにバビロンに連れ去られていたと思われます。


主だった者たちを失った南王国が、いよいよ最後の時を迎えようとしています。

ある人々は絶望し、ある人々は先祖の責任だと考え、

ある人々は神のなさりようは正しくないと言っていました。


しかし、神の御心は、人々が立ち帰って生きることでした。

もはやどんな可能性もないように見える滅亡の瀬戸際でも、神は語り続けてくださいます。


「立ち帰って、生きよ」と。

*10月1日 「心の武装」

ペトロの手紙一、4章1~6節


信仰者として生きることは、窮屈なのではないかと考えるかもしれません。

ユダヤ人が律法の行いによって義と認められようとしたのに対して、
使徒パウロはただイエス・キリストの信実によって、わたしたちは義と認めていただけるのだと教えました。

だから、キリスト者は律法から解放されています。


そうは言っても、勝手気ままに生きてよいということにはならないはずです。

神を見上げ、神の御心にかなうように生きなければならないはずです。

そういう生き方は窮屈なのではないか。

自分の欲望のままに生きる方が幸せなのではないか。


しかし、そうではありません。

欲望に従うならば、欲望の奴隷になるだけで、そこには自由はありません。

そして欲望はどこまでも大きくなるばかりで、決して満たされることはありません。

自分だけを愛し、自己中心に生きることになります。

隣人のために苦しむことができること。

そこに、本当の自由があります。

本当の喜びがあります。

*10月24日 「華麗なるダンス」 伊藤先生

マルコによる福音書6章14~29節


特別な説教者として、青山学院大学で聖書を教えておられる伊藤悟先生が説教をしてくださいます。

9月19日にも説教の奉仕をしてくださいました。

その時に続いて、今回もマルコによる福音書を解き明かしてくださいます。


ヘロデ王の宮廷で、一人の少女が踊りを踊ります。

(聖書には名前が出てきませんが、『ユダヤ古代誌』という書物では「サロメ」と呼ばれています。)

その踊りがみなを喜ばせたので、王は少女に「欲しいものは何でも与える」と約束します。


すると少女は「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。

美しい少女が、切断された首の載った盆を持っている。

恐ろしい姿です。

この場面は、たくさんの絵画に描かれてきました。


ヨハネを尊敬しながらも、少女の願いを退けられない王の弱さ。

自分の結婚に反対したヨハネを恨み、殺害を望んだ、サロメの母へロディア。

母の言いなりになって、一人の人間の命を褒美として受け取ろうとするサロメ。

人間の愚かさ、醜さがむき出しになっています。


洗礼者ヨハネは、人の罪によって殺されることによって、その死を通しても主イエスを証しし続けています。

*10月31日 「愛は多くの罪を覆う」

ペトロの手紙一、4章7~11節


聖書は「世の終わり」を語ります。

世の終わりとは、世界の破滅ではありません。

完成です。


神のご計画が完成に至る時です。

神の救いが完成に至る時です。

その時が迫っています。

残された時間は限られています。

その時間をどう使うか。


世の終わりに、主イエスが再び来てくださいます。「再臨」と言います。

来てくださるお方を待ちながら生きます。

いついらしてもいいように備えをしながら、愛する方が早く来てくださるようにと待ち望みながら生きます。