2021年11月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*11月7日 「起きなさい」 ※聖徒の日
使徒言行録9章36~42節
キリスト教会は11月1日を「聖徒の日」として、先に主のみもとに召された人たちを覚えています。
わたしたちの教会では、11月の最初の日曜日を「聖徒の日」とし、「召天者記念礼拝」をささげています。
例年は礼拝直後に「召天者を偲ぶ時」を持ってきましたが、コロナ禍の状況を踏まえ、昨年と今年は取りやめとしました。
「聖徒の日」にあたり、使徒言行録を読みました。
キリストの使徒ペトロが、タビタという名の女性を生き返らせたことが語られています。
主イエスはかつて、会堂長ヤイロの娘を生き返らせました。
それは、主イエスがどなたであるのかを示すしるしでした。
重い皮膚病の人は人との接触を禁じられ、町の外に住まなければなりませんでしたが、主イエスはその人に触れ、いやしてくださいました(マタイ8:1~4)。
異邦人である百人隊長の僕もいやしてくださいました(同5~13)。
主イエスは、わたしたちの病を担ってくださったのであり、主イエスが打たれることで、わたしたちはいやされたのでした(同14~17)。
主イエスは、悪霊に取りつかれ、墓場を住みかとする人もお救いになりました(同28~34)。
体の麻痺した人をおいやしになったのは、罪を赦す権威をお持ちであることを知らせるためでした(マタイ9:1~8)。
そして会堂長の娘が死んでいたのを、生き返らせてくださいました(同23~26)。
今、ペトロは、主イエスがなさったことをなぞるようにしてふるまいます。
そして、すでに死んでいた一人の女性を生き返らせます。
それは、ペトロが何者なのかを示すしるしではありません。
むしろ、主イエスが今も生きて働いていてくださることのしるしであり、主イエスがわたしたちに、死によって終わることのない、永遠の命を与えてくださることのしるしです。
*11月14日 「わたしは何者でしょう」 ※矢田洋子先生
詩編8編
特別な説教者として、東京女子大学でキリスト教を教えておられる矢田洋子先生が説教をしてくださいました。
「わたしは何者なのか。」
これは、だれにとっても真剣な問いです。
また時には、深い心の苦しみをもたらす問いでもあります。
自分は何者でもなく、何の価値もなく、だれからも必要とされていないと思うならば、人は生き続けることができなくなってしまいます。
わたしたちは何者でしょうか。
どれだけ自分を見つめても、自分のことを思い巡らしても、自分が何者であるかはわかりません。
神を知り、神の前に立つときに、初めて自分が何者なのかを知らされます。
聖書の御言葉は、神がどなたであるかを語り、神の前にいるあなたが何者なのかを語ります。
御言葉の光によって、自分自身を見出してください。
最新4回分の説教音声をこのホームページで聞くことができます。
*11月21日 「苦しみの中での喜び」
ペトロの手紙一、4章12~19節
わたしたちの魂を悩ませる問いの一つが、「意味」の問題です。
たとえば、「苦しみの意味」です。
意味がわかれば、まだしも耐えやすくなります。
家族を養うための苦しみ、友人を助けるための苦しみ、災害に遭った人を支えるための苦しみであれば、喜んで引き受けることさえできるかもしれません。
しかし、理不尽な苦しみ、意味のわからない苦しみには耐えられません。
ペトロの手紙が書かれたのは、キリスト者が迫害されていた時代です。
迫害による苦しみも、無意味な苦しみに思えたことでしょう。
苦しみの中で、自分の弱さや不信仰があらわになってくるばかりです。
しかし使徒ペトロは苦しんでいるときに、その苦しみのただ中にもキリストがいてくださり、キリストが共に苦しんでいてくださることを知りました。
それどころか、実はキリストこそが苦しんでいてくださって、キリストのお苦しみに参加させていただいているのであることを知りました。
苦しみの中でこそ、キリストと深く交わり、キリストの恵み深さと力強さを味わうことになりました。
キリストのものとされ、キリストに結びあわされていることが、わたしたちの喜びです。
そしてそれは、どんな苦しみがあっても奪われることのない喜びです。
*11月28日 「神がともにおられる」 ※伊藤多香子先生
マタイによる福音書1章18~25節
特別な説教者として、関東学院六浦中学・高等学校で宗教主任として聖書を教えておられる伊藤多香子先生が説教をしてくださいます。
11月28日から、教会のカレンダーは「待降節」に入ります。
「待降節」を英語では「アドヴェントAdvent」と言います。
「到来」という意味です。キリストの到来です。
「待降節」は、キリストが到来してくださったキリスト降誕祭(クリスマス)に備える時であり、それと同時に、キリストがもう一度到来してくださるのを待ち望む時です。
待降節にふさわしく、主イエスの誕生が予告され、予告どおりに誕生なさった箇所が読まれます。
この箇所には、二つの名前が出てきます。
一つは「イエス」です。
「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と説明されているように、「イエス」(もとのヘブライ語では「イエシュア」)は、「救う」という意味です。
あるいは、「イエシュア」は「イエホシュア」が短くなった形ですので、「イエホシュア」にまでさかのぼれば、「主は救いである」という意味になります。
もう一つの名前は「インマヌエル」です。
旧約聖書のイザヤ書7章14節が引かれています。
「イム」は「共に」。
人称を示す語尾がついて、「イマヌー」は「わたしたちと共に」。
「エル」は「神」。
「インマヌエル」は「神はわたしたちと共に」という意味です。
わたしたちのところに到来してくださった主イエスは、まさしくインマヌエルの神です。
そして主イエスは、同じマタイによる福音書の終わりで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と約束してくださいました。