2022年05月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*5月1日「神に近づくために」
ヘブライ人への手紙7章1~19節
ヘブライ人への手紙は、主イエスを「偉大な大祭司」と語ります。
このことが、この手紙の中心的なメッセージです。
主イエスが大祭司であられるということを語るために、まず語るのが、主イエスは「メルキゼデクと同じような祭司」である、という話です。
このことはすでに5章6節、10節で語り始めたところでした。
しかしその後、「このことについての説明は容易ではない」と言って、少し足踏みしました。
6章の終わりでもう一度「イエスは…永遠にメルキゼデクと同じような大祭司になられたのです」と述べて、話の本筋に戻ってきました。
そして、いよいよメルキゼデクの話を本格的にしているのが7章ということになります。
「メルキゼデクと同じような」と繰り返して言われるのですが、メルキゼデクとはだれでしょうか。
聖書をよく読んでいても、あまり馴染みのない名前かもしれません。
旧約聖書に登場する人物ですが、創世記14章18〜20節の、わずか3節に語られているだけです。
あとは詩編110編4節に名前が出てきます。
(この詩編の言葉が、今回のヘブライ書7章17節に引用されています。)
突然現れ、そのまま消えてしまう、不思議な人物です。
この人がしたことはただ一つ。アブラハムを祝福したのでした。
もっと後の時代になって、モーセの兄であり祭司であるアロンの子孫が祭司の一族となります。
メルキゼデクはアロンと同じような祭司でないどころか、おそらく異邦人です。
この不思議な祭司こそ、実は主イエスの姿を映し出し、主の到来を予告している人物なのでした。
*5月8日「常に生きていて、執り成しておられる」
ヘブライ人への手紙7章20~28節
主イエスは「祭司」であられます。
これが、ヘブライ人への手紙がどうしても語りたいことです。
どんな祭司でしょうか。
今回の箇所にこう語られています。
「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(25節)
永遠から永遠に至るまで祭司でいてくださって、執り成し続けていてくださる。
御自身を差し出し、献げることによってです。
わたしたちの罪のための赦しを願い、わたしたちの困難のための助けを願っていてくださいます。
痛ましい事故に言葉を失います。
愛する者をなくして、胸がつぶれそうになります。
恐ろしい争いが終わらず、叫びだしたくなります。
祈ることもできなくなるかもしれません。
しかし、わたしたちのために、主イエスが祈っていてくださいます。
執り成していてくださいます。
救いの確かさは、主イエスの確かさです。
*5月15日「神は私を知っておられる」 ※矢田洋子先生
詩編130編
特別な説教者として、矢田洋子先生が説教をしてくださいます。
矢田先生は昨年度まで東京女子大学でキリスト教を教えておられましたが、この4月からは東京神学大学の常勤講師として伝道者の養成にあたっておられます。
詩編130編は「七つの悔い改めの詩編」の一つです。
「深い淵の底から」という言葉で始まります。
重い病に打ち倒されているのでしょうか。
困難に見舞われて、真っ暗な心を抱えているのでしょうか。
「罪」(3節)という言葉も出てきます。
取り返しのつかない過ちを犯したのでしょうか。
自分でもどうすることもできない暗い情欲を抱き、愚かな言葉を発し、むごいふるまいをし、思い出せば、胸をかきむしりたくなる思いでいるのでしょうか。
落ちるところまで落ちて、深い淵の底から、この信仰者は主を呼びます。
主を待ち望みます。
「主を待ち望む」とはどういうことでしょうか。
夜明けを待つように。
荒廃した土地から新しい芽が出るのを待つように。
なくしたものが見つかったとの知らせを待つように。
遠い国に出かけてしまった、愛する者を待つように。
主を待ち望む。
あの嘆きにおいても、あの涙の中でも、あの不安の中でも、
そのただ中で、主を待ち望む。
つぶやくよりも先に、
願うよりも先に、
わたしたちは主を待ち望みます。
*5月22日「新しい契約」
ヘブライ人への手紙8章1~13節
聖書は、神と人間との契約の記録です。
「旧約」と言い、「新約」と言いますが、これも「古い契約」「新しい契約」のことです。
神はわたしたちをご自分の民にしてくださり、契約を結んでくださいます。
古い契約は、神の言葉による契約でした。
神がいのちの言葉を語りかけ、約束を与えてくださいました。
民は神の言葉によって生きることを約束しました。
けれども、民は神を信じ、神の言葉に従うことができませんでした。
繰り返して神に背きました。
契約は破られてしまいました。
それでも神は民を見捨てることをなさらず、新しい契約を結んでくださいました。
今回の箇所の8~12節に長い引用があります。
これは、旧約聖書のエレミヤ書31章31~34節からの引用です。
新しい契約は、すでに旧約聖書において約束され、預言されていました。
約束されていたことのすべてが、主イエス・キリストにおいて実現しました。
契約をどうしても守ることができないわたしたちのために、主イエスが祭司となり、わたしたちの場所に立ち、神への従順を貫き、契約を全うしてくださいました。
大切なのは、神の言葉を文字として受け取り、実行することではありません。
神の語りかけを聞き、神の心を受け取ることです。
大祭司キリストのゆえに、わたしたちは自分の心で神の心を受け取ることができます。
*5月29日「永遠の贖い」
ヘブライ人への手紙9章1~14節
主イエス・キリストはわたしたちのために十字架にかかり、死んでくださいました。
わたしたちは、キリストの十字架によって救われました。
わたしたちはそう信じています。
しかし、キリストの死とわたしたちの罪とはどのように結びつくのでしょうか。
キリストが苦しみ、死なれることが、どうしてわたしたちを救うのでしょうか。
これは、神の秘義に属することです。
キリストが復活されたことによって、父なる神がキリストのみわざを受け入れてくださったことがわかります。
わたしたちの救いのために必要な一切のことが成し遂げられたことがわかります。
しかし、キリストが死なれることで、いったい何が成し遂げられたのかは、わかりません。
わたしたちの理解を超えたことです。
救いの御業が成し遂げられたことを、わたしたちはただ信じるだけです。
キリストの十字架の意味について、聖書が何も語っていないわけではありません。
しかし、神の救いの秘義はまことに大きいので、とてもとらえきれず、語りきれません。
十字架の意味について、実にさまざまなことが語られています。
・わたしたちが受けるべき裁きを、キリストが代わって受けてくださった。
・キリストは従順を貫き、わたしたちに代わって律法の要求を満たしてくださった。
・罪を犯した者がなすべき償いをした。
・罪という負債をわたしたちに代わって支払ってくださった。
・罪と死に打ち勝ち、滅ぼしてくださった。
・罪のゆえに悪魔のとりこになっていたわたしたちを解放してくださった。
・罪の奴隷になっていたわたしたちを、代価を払って買い取ってくださった。などなど。
ヘブライ人への手紙は、これらとは違う語り方をします。
キリストは祭司として天にあるほんとうの聖所に行き、
「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(12節)。
旧約時代の祭儀は、このことをおぼろげに映し出し、予告するものでした。
キリストこそが真の祭司として、御自分の血によって永遠の贖いの祭儀をなさった!
ヘブライ人への手紙だけが語る、十字架の意味です。