2020年11月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*11月1日 「いつまでも主と共に」 ※聖徒の日

テサロニケの信徒への手紙一、4章13~18節


キリスト教会では古くから11月1日を「聖徒の日」と呼び、先に神のみもとに召された人たちを記念してきました。

「聖徒/聖なる者」とは、聖書ではすべてのキリスト者を指す言い方です。

成瀬が丘教会でも、11月の最初の日曜日の礼拝を召天者記念礼拝としてささげます。


召天者記念礼拝にあたって、使徒パウロの言葉に聞きます。

「既に眠りについた人たちについては、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言って始まる箇所です。


「眠りについた人たち」、すなわち、死んでしまった人たちについて、知らずにいてほしくないことがある。

それは、主イエスが復活されたのとまったく同じように、主イエスにあって死んだ人たちもまた復活し、永遠の命に生きることになるということです。

やがて、主イエスは再びわたしたちのところに来てくださいます。


キリスト者の生活は、主イエスを待つ生活、主イエスをお迎えする準備をする生活です。

主イエスが到来してくださるまで生きていても、その前に死んでしまっていても、どちらでもかまいません。

生きている者も、死んでいた者も、一緒になって主イエスを迎え、それからはいつまでも主イエスと共にいることになります。

これがキリスト者の希望です。

*11月8日 「わたしたちが呼ぶ神の御名」

出エジプト記3章13~15節


旧約聖書には神のお名前が出てきます。

旧約聖書が書かれたヘブライ語の文字をローマ字に置き換えると、「YHWH」という名前です。

ただし、十戒で「主の名をみだりに唱えてはならない」と命じられているので、

このお名前の所に来ると、直接このお名前を発音しないで、その代わりに「主」を読みました。

いつも「主」と読んでいたために、ついには「YHWH」をどう発音するかがわからなくなってしまいました。


(ヘブライ語の文字には、もともとは子音しかないことも発音がわからなくなる原因の一つです。

ずいぶん古い時代に母音記号を付け加えるようになりましたが、「YHWH」にはこの語の母音記号をつけず、

その代わりに「この語は『主』と読め」という指示として、「主(アドナイ)」という語に着く母音記号がつけられています。)


旧約聖書には「主」という語がたくさん出てきます。

そのうちの多くにおいては、神のお名前が書いてあるのですけれども、「主」と読む伝統に従って、翻訳においても「主」と訳しています。

(「YHWH」の発音を推測して、「ヤハウェ」「ヤーウェ」「ヤハヴェ」などと訳しているものもあります。)


今日の箇所には、もっとくわしい神のお名前が出てきます。

モーセが神に問いました。


「他の人たちからあなたの名を聞かれたら、何と答えるべきでしょうか。」


それに対する神の答えです。


「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。


この部分は、たいへん不思議な言葉です。

元のヘブライ語は三つの単語です。

しかも、最初の単語と最後の単語は同じ動詞の同じ形をしており、真ん中の単語は関係詞です。

カタカナに置き換えるとこうなります。


「エフイェ・アシェル・エフイェ」


多くの英語の聖書が、「I am that I am」とか「I am who I am」などと訳しています。


日本語ではさまざまに訳されてきました。

「わたしは、有って有る者」(口語訳)

「わたしはあるものである」(フランシスコ会訳)

「わたしは、わたしが在る者である」(マルティン・ノート)


本当に存在する方、究極の実在者、ということでしょうか。


「エフイェ」には、「ある」(存在している)という意味だけではなく、「なる」(生成する)という意味もあります。

「わたしはあらんとしてある者である」(関根正雄)

「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」(鈴木佳秀)

「わたしはなる、わたしがなるものに」(岩波書店)


「(ここに)ある、いる」と固定してしまうことができず、わたしたちには捉えることができず、

いつも新しく生まれ続け、変化し続けているお方、という意味合いでしょうか。


これらの訳も間違いでないと思いますが、神のお名前は、神が神としておられる、というだけでなく、

わたしたちのためにいてくださり、わたしたちとかかわりを持ってくださる、という意味合いも込められているようです。

そのような関係性を込めた訳もあります。

「わたしがいるのだ。たしかにいるのだ」(左近淑)

「わたしだ。そうだ、わたしだ」(大住雄一)


わたしたちがどのようなところにいても、どのような目に遭っていても、神は「安心しなさい。わたしだ。恐れるな」と語りかけてくださいます。

*11月15日 「朝ごとの恵み」

出エジプト記16章2~3節、11~18節


イスラエルの民はエジプトに寄留していましたが、奴隷にされ、過酷な労働を強いられて虐待されていました。

イスラエルの民が神に叫んだところ、神はモーセを遣わして、民をエジプトから脱出させてくださいました。

エジプトを出てきたまではよかったのですが、逃れた先は荒れ野です。

川もなく、草木もほとんど生えない不毛の地、岩石砂漠です。生きることができない場所です。

しかし神は、「天からのパン」で民を養ってくださいました。

イスラエルの民はこれを「マナ」と名付けました。


マナを食物として与えられるのですけれども、マナはその日の分しか集めてはならない決まりです。

翌朝まで残しておいてはならないのです。

そのように言われていたのですが、何人かは、集めたうちの一部を翌朝まで残しておきました。

その気持ちはよくわかります。明日もマナが与えられるかどうかわからないからです。

マナが与えられず、飢えることになるのが怖いからです。


これは、食べ物のことばかりではなさそうです。

将来に期待しないで、今持っているものでよしとしようとします。

「信仰」さえもです。


神を待ち望むことができずに、自分の力で先々に備えておこうとします。

そうやっていつの間にか、神に働いていただく余地を残さず、自分の計画と行動で自分の命を満たしてしまっています。

荒れ野での生活は、明日のことを思い悩むのをやめて、明日を神の御手にゆだねることを学ぶ生活でした。

新しく神と出会い、新しく神の言葉を聞く経験を重ねる歩みでした。


マナによって生きるのは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

*11月22日 「主の驚くべきわざを見よ」

出エジプト記34章4~10節


エジプトを脱出した神の民は、神の山に行きました。

民を代表してモーセが山の上に登りました。そして十戒を刻んだ石の板を授かりました。

神がわたしたちに望んでいてくださる十の言葉です。

神に救い出され、神の民とされ、神と共に生きるようになった者たちに向かって、

「あなたがたはきっとこうであるはずだ」と、神が信頼をもって語りかけてくださる言葉です。

わたしたちの命に対して、明確にあらわされている神の心です。


その第一の言葉はこうです。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)。


第二の言葉はこうです。

「あなたはいかなる像も造ってはならない」(同4節)。


モーセが山の上でこれらの言葉を授けられている、まさにその時、

山のふもとでは、待ちきれなくなった民が金の子牛の像を造り、その像を自分たちの神として拝んでいました。


山を降りてきたモーセは、もらったばかりの石の板を投げつけ、砕きました。

神の言葉はもうすでに捨てられ、砕かれていたからです。

これが、出エジプト記32章、33章に語られていたことです。


それに続く今日の箇所、34章の冒頭で神が言われます。

「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう」(1節)。


神はやり直してくださいます。

何度でもやり直してくださいます。

いや、やり直すのではなくて、もっと大きなことをなさいます。

どうしても神に従えず、神の言葉に背いてしまうわたしたちをあきらめず、それでも救うための神の驚くべきわざが行われます。

*11月29日 「夜は更け、日は近づいた」

ローマの信徒への手紙13章8~14節


キリスト教会は、12月25日をキリスト降誕祭(クリスマス)として祝います。

それに先立つ四つ前の日曜日に待降節(アドヴェント)が始まります。

「アドヴェント」「到来」を意味します。主イエスの到来です。


主イエスが、かつてクリスマスの夜にこの世に到来してくださったことを想い起こし、

また主イエスが、やがてわたしたちのところに再び到来してくださることを待ち望みながら、

主イエスにお会いするための備えをする期間です。


ですから待降節は、何よりも悔い改めの時であり、祈りの時です。

闇が深まっていく季節に、本当の光の到来に思いを集めます。


待降節を迎えて、主イエスの到来について語る使徒の言葉に耳を傾けます。

今回は使徒パウロが書いたローマ書の言葉です。

パウロは語ります。


「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」


聖書の言葉は、時報のように時を告げています。

今がどのような時か。今はすでに終わりの時です。そして残りの時はますます短くなっています。

終わりが近づいています。

聖書は「終わり」に、神の最終的な審判があると語っている、と思っているかもしれません。

それは間違いではありません。


しかし、パウロはここでは違う語り方をしています。

終わりには「救い」がある。そして救いは近づいている。

残された時間はわずかです。不思議な猶予として与えられた時間です。

その時間を、ただ愛することのために使え、とパウロは語ります。

それ以外のことをしている時間はもうないのです。