★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
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ヨハネによる福音書3章31~36節
ヨハネによる福音書3章は不思議な章です。
初めは主イエスとニコデモとの対話でしたが、ニコデモはいつの間にかいなくなってしまいます。
10節から始まった主イエスの言葉は、12節まで続いていることは確かですが、12節で終わったのか、15節までか、21節までか、わかりません。
後半も前半とよく似ています。
他の福音書では「洗礼者」と呼ばれているヨハネが27節から語りだして、ヨハネの言葉が30節まで続いていることは確かですが、そこで終わったのか、36節まで続いているのか、わかりません。
どちらの場合も、かつて起きた出来事を聞き、かつて語られた言葉を聞いていたはずが、いつの間にか、今ここで語りかけてくる聖霊の声が聞こえていたかのようです。
16~21節も、31~36節も、主イエスはどなたなのか、主イエスを信じる者はどうなるのかを語ります。
難しく感じられる言葉です。
それだけに、よく耳を傾けたいと思います。
主イエスは「父のふところにいる独り子である神」だとすでに語られていました(1:18)。
ヨハネは、この方が「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししました(1:29)。
そしてここでは、「上から来られる方」「天から来られる方」だと言われています。
主イエスは天から来て、「天上のこと」(3:12)、天で「見たこと、聞いたこと」を証しされます(3:32)。
それこそが「真理」(3:21)であるはずです。
それは、神が世を愛し、永遠の命を与えようとしておられるということです。
わたしたちはこの証しを、ただ受け入れ、より頼んだらよいのです。
ヨハネによる福音書4章1~26節
主イエスとサマリアの女との出会いが語られます。
「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」(9節)と言われています。
「サマリア人」の登場は、紀元前8世紀にさかのぼります。
そのころ、イスラエル王国は南北に分裂していましたが、そのうちの北王国の首都がサマリアでした。
北王国そのものが「サマリア」の名前で呼ばれることもあります。
この北王国は紀元前722年に大国アッシリアに滅ぼされてしまいました。
アッシリアは、滅ぼした国の人々が力を回復しないように、強制移住させました。
イスラエルの十二部族のうち北王国に属していた十部族の人々も各地に移住させられてしまいました。(それで「失われた十部族」などと言われます。)
そしてその代わりに、同じように国を滅ぼされた別の民族が北王国があった地に移住させられてきました。
この人々と、移住させられないで残っていたユダヤ人とが混ざり合って、「サマリア人」になったと考えられています。
サマリア人たちもモーセの律法を守っています。
しかし、移住させられてきた民族の文化や宗教も入り込んでしまっています。
そのため、いわば「純粋な」ユダヤ人からすると、サマリア人も異邦人であるとみなされました。
しかも、もともとはユダヤ人でありながら、異邦人と混じり合ってしまった裏切り者、律法違反者として、異邦人以上に汚れているとさえ見えました。
そうして、何百年にもわたって反目し続けることになってしまいました。
主イエスがお語りになった「善いサマリア人」のたとえ(ルカ10:30~35)は、ユダヤ人にとっては衝撃的な展開を示しています。
主イエスはここで、一人のサマリアの女にまっすぐに近づき、彼女が抱えている魂の渇きに目を注ぎ、命の水を与えてくださいました。
ヨハネによる福音書4章27~42節
主イエスとサマリアの女の出会いの続きです。
主イエスが彼女を見つけ出し、かかわりを持ってくださり、信仰へと導いてくださいました。
サマリアの女の話は26節までで十分であるように思われます。
けれどもそうではありませんでした。
彼女が主イエスを信じてその後も生きていくためには、信仰の仲間が必要でした。
彼女が人間らしく生きていくためには、共同体に取り戻されなければなりませんでした。
彼女自身が、自ら町に行き、人々に近づいていきます。
水がめを置き去りにして、走っていきます。
これまでは人目を避けて、真昼間に水くみをしていたのに、人々の中に飛び込んでいきます。
他の人々にも伝えずにはいられなくなったのです。
メシアと出会った喜びを、他の人々と分け合いたくなったのです。
喜びがもっと大きくなるからです。
そのようにして、サマリアでの伝道が進んでいきました。
主イエスは、畑が色づいて、刈り入れを待っているのを見ておられます。
ヨハネによる福音書13章31~38節
2月22日が「灰の水曜日」でした。
この日から「受難節」となります。
主イエスのお苦しみを覚え、自らの罪を悔い改める祈りの時です。
4月9日の「キリスト復活祭(イースター)」までの40日間です。
日曜日はこの40日間には含めないので(なぜなら、日曜日はいつでもキリストの復活を祝う日だからです)、日曜日を除いた40日前が2月22日になるわけです。
祈り深く過ごしてまいりましょう。
受難節に入りますので、礼拝においても、主イエスのご受難を語る箇所を読みます。
ヨハネによる福音書では、12章12節以下の箇所で主イエスはエルサレムに到着されました。
そして13章から、ご受難の物語が語られます。
13章から17章までは食事の場面です。
主イエスと弟子たちとの、いわゆる「最後の晩餐」です。
他の福音書では、主イエスが聖餐礼典を制定されたことが語られています。
ヨハネによる福音書では、主イエスが弟子たちの足を洗われたことがまず語られました。
その後、主イエスの長い言葉が続きます。「告別説教」と呼ばれます。
いろいろなことが語られますが、その中心にあるのは愛の掟です。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34節)
この福音書の12章までは、主イエスがなさった「しるし」が語られてきました。
そこでのカギとなる言葉の一つは「信じる」でした。
13章からは主イエスのご受難が語られます。
ここでカギとなる言葉は「愛する」です。
主イエスはわたしたちを愛し通してくださり、またわたしたちに愛することをお命じになります。
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