2020年05月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*5月3日

創世記1章1~5節、24~31節

「混沌に射す光」


新しいウイルスが生まれ、またたくうちに世界中に感染が広まっています。

感染を防ぐためには、人との接触を避けるしかなく、さまざまな活動が停滞しています。

感染の危険に身をさらしながら、大切な働きについていてくださる方々がいます。

これまで当たり前だと思っていたことが、とてももろく、また危うい均衡の上に成り立っており、

あまりにも余裕がないものであったことが明らかになりました。


いろいろなものが崩れ落ち、混沌としてしまい、もはやコロナ禍以前に戻れるはずもありません。

これから世の中はどうなっていくのかと、不安を抱えています。


このような中で、これからしばらくの間、旧約聖書の創世記に耳を傾けたいと思います。

創世記のある部分が書かれ、また創世記が書物としてまとめられたのは、イスラエル王国が滅亡した後の時代です。

崩壊の時代です。混沌の時代です。


神が与えてくださった国が滅び、神が選んで立ててくださった王がいなくなり、

神の都エルサレムは瓦礫となり、神の家(神殿)も破壊されてしまいました。

ただ戦争に負けるよりも、ただ国が滅びるよりも、もっと根本的な破滅です。

まさに足もとが崩れ落ちて、たしかなものは何もなくなりました。

もうどこにも進んでいきようがない行き止まりの、終わりの場所で、希望を持ちようがありませんでした。

神の御心がどこにあり、神を信じることにどういう意味があるのかわからなくなりました。


創世記第1章は、混沌の中で絶望している者たちに向けて語る言葉です。

神はこの混沌に秩序を与えてくださる。

神はこの暗黒に光をお造りくださる。

そしてあなたを光の中で生きるようにしてくださる。

*5月10日

創世記2章4~7節、15~25節

「あなたのための助け手」


ウイルスの感染を防ぐために、多くの教会が教会堂での礼拝に集まる人を牧師と役員だけに限るなどしています。

成瀬が丘教会の主日礼拝は今も公開で行っていますが、

公共の交通機関を使わなければ教会堂にまで来ることのできない人は出席を控えてくださるようにと呼びかけています。


一緒に集まって礼拝することができなくなってみて、あらためて痛感させられるのは、

かたわらに信仰の仲間たちがいることが、どれほどわたしたちを助けていたかということです。


かたわらで祈っている姿を見て、わたしたちは神がまことに生きておられることを知らされ、

自分自身も祈ることができるようになります。


隣り人は助け手です。


神は、わたしたちが隣にいる人の助け手となることを願っていてくださいます。

そして、その神ご自身がわたしたちのかたわらに来て、わたしたちの助け手となってくださいました。

わたしたちが神を信じることができるように、神に祈ることができるように、

たがいに赦し合いながら生きられるようにしてくださいました。

それが主イエス・キリストです。


主イエスがわたしのためになってくださったように、

わたしも隣りにいる人のための助け手になりたいと願います。


*5月17日

創世記3章1~13節

「楽園回復」


最初の人アダムとエバはエデンの園で、

神が「取って食べてはならない」と命じておられた木の実を取って食べてしまいました。


神の言葉に背くこと。

神の言葉に込められている神の愛に背くこと。

神の思いを拒み、自分勝手に生きること。

このことによって、神との関係が壊れてしまいました。

聖書はこれを「罪」と呼びます。


罪を犯したアダムとエバに向かって、

神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけて探し、

「あなたは何ということをしたのか」と問いかけ、

ご自分のもとに帰るようにと招き続けてくださいました。


罪を問うのは立ち返らせるためです。

裁くのはいやし、清めるためです。

神は失われた者を見つけ出し、連れ帰ろうとなさいます。


イギリスの詩人ミルトンは、創世記3章を題材に「パラダイス・ロスト」を書きました。

失楽園。楽園喪失です。

しかしミルトンはまた、その解決のことも書いています。

「パラダイス・リゲインド」、復楽園、楽園回復です。


そこでミルトンは、主イエス・キリストの物語を語ったのでした。

*5月24日

創世記4章1~16節

「あなたの兄弟はどこにいるのか」


創世記4章が語る人間の姿は、まことに深刻です。

兄が弟を殺してしまいます。

弟をねたみ、弟に腹を立て、ついには殺してしまいました。


3章に出てきた「あなたはどこにいるのか」という問いかけに続いて、

4章で神はもう一つの問いを投げかけておられます。


「あなたの兄弟はどこにいるのか。」


わたしたちは殺人を犯すことはないかもしれません。

しかし同じように問われています。


「あなたの兄弟はどこにいるのか。」


あなたと共に喜び、共に礼拝をすべきあなたの兄弟、あなたの姉妹はどこにいるのか。


感染症におびえる友、経済的に困窮している仲間、

負いきれない重荷に押しつぶされそうになっている同僚はどこにいるのか。


そのように問うことで、ここでも神はわたしたちを突き放しておられるのではありません。

わたしたちを探し求め、正しい道に立たせようとしていてくださいます。

*5月31日 聖霊降臨祭主日

エゼキエル書37章1~14節

「枯れた骨が生き返る」


今年は4月12日にキリスト復活祭を祝いました。

今日はその日から数えて7週間後、50日目にあたります。


主イエスは復活された後、40日にわたってご自身を弟子たちに現してくださいました。

そして40日目に天に昇られました。

(5月21日がキリスト昇天日でした。)


それからさらに10日たったこの日、主イエスが約束していてくださった聖霊が降りました。

聖霊の働きによって、弟子たちは初めて、主イエスがどなたであるかを知りました。

主イエスが十字架の上で死なれたことにどういう意味があるのかを知りました。


そして、主イエスと主イエスを通してなされた神の驚くべき救いのみわざについて、

人々に告げ知らせるようになりました。

弟子たちの言葉を聞いて多くの人々が主イエスを信じ、最初の教会が生まれました。

だから聖霊降臨祭は、教会が誕生した日でもあります。


聖霊とは、しかし何でしょうか。

「霊」という言葉は、わたしたちには捕らえがたく感じられます。

「霊」と訳される言葉は、聖書では「風」とか「息」という意味のある言葉です。


風も息も空気の動きです。空気が動き、命が息づいている。

神の霊とは、神が生きておられることであり、また神が生かしてくださることです。

神によって鼻に息を吹き込んでいただいて、人は生きた者となります。


神の息吹によって人は生き返ります。

神に向かって大きく息を吐きだして祈り、賛美するときに、

わたしたちは真に生き生きとしたものとなります。


このことを、もっともありありと語るのがエゼキエル書37章です。

神の息がどのような力を持っているのか。

その力がどのようにわたしたちにかかわっているのか。


エゼキエル書が語る幻の中に入っていきましょう。