2021年07月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*7月4日 「もっと深い愛を」
ペトロの手紙一、1章22~25節
ペトロの手紙は苦しんでいる人たちに宛てて書かれた手紙です。
教会への迫害が始まっていました。
しかし、迫害だけに限る必要はありません。
わたしたちにも苦しみがあります。
苦しみの中で、希望を失います。愛することができなくなります。
しかし、前の箇所では、「信仰はまた、神へと向かう希望ともなる」と語られました。
どの道も暗く、あるいは行き止まりで、光が見えなくても、神に向かう道があり、そこに光があるというのです。
今日の箇所はその続きです。
「神の愛を受けて、もっと深く愛することができる」と語ります。
迫害の中で、敵意や憎しみを向けられていました。
そうでなくても苦しみの中で、心が固くこわばり、乾ききってしまいます。
しかし何があろうとも、神の愛の言葉は変わりません。
神の愛の言葉によって、わたしたちは生まれ変わり、深く愛することを体験することができます。
*7月11日 「乳飲み子のように求めるもの」
ペトロの手紙一、2章1~3節
キリスト者になることは、新しく生まれることです。
洗礼を授けるとき、わたしたちの教会では、洗礼を受ける人の頭に水を滴らせます(「滴礼」と言います)。
しかし、川や池や洗礼槽の中に全身を沈めてしまうやり方もあります(「浸礼」と言います)。
水の中に沈むことが「死」を表しており、水から出てくることが「新しく生まれる」ことを表しています。
滴礼であっても、洗礼において起きることは同じです。古い人が死に、新しい命に甦ります。
ペトロの手紙は、このことを何度も語ってきました。
「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださった」(1:3)
「あなたがたは、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)
新しく生まれました。赤子になりました。そこで言われます。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」
赤ちゃんが一心にミルクを飲むように、霊の乳を求めたらいい。
「霊の乳」とは、神の言葉です。偽りのない愛の言葉です。
愛の言葉を聞き続け、自分の中を神の言葉で満たしてしまいなさい。
説教を聞くことも、聖餐にあずかることも、霊の乳をのむことにほかなりません。
*7月18日 「あなたは王の系統を引く祭司」
ペトロの手紙一、2章4~10節
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(9節)
御言葉はわたしたちにこのように告げます。
どうしてそんなことが言えるのだろうか。とても自分のこととは思えないと感じる言葉です。
わたしたち自身をいくら見つめても、「王」であり、「祭司」であり、「聖なる」ものであるとはとても考えられません。
あり得ないことです。
自分を見つめることをやめて、ただひたすらに、主イエスを見つめなければなりません。
十字架におかかりになった主イエスです。
主イエスは、あなたのために、あなたの罪を引き受けて十字架につけられました。
あなたをお選びになったのです。
主イエスはあなたのために血を流し、命をささげてくださいました。
あなたは主イエスの血によってきよめられ、主イエスの命によって買い取られました。
あなたは聖なる者、神のものです。
御言葉は事実を告げています。
主イエスの十字架によってもたらされた事実です。
ですからわたしたちは今、「王」として、「祭司」として生きることへと召されています。
*7月25日 「訪れの日に心を向けて」
ペトロの手紙一、2章11~12節
聖書はいつでも、「神がわたしたちのために何をしてくださったか」を語ります。
わたしたちはすぐに、「わたしが何をするべきか」を読み取ろうとしてしまいます。
しかしそれは、聖書をひっくり返しにし、逆さまにして読むことなのです。
今日の聖書箇所に「異教徒の間で立派に生活しなさい」という言葉があります。
こういう言葉は、もっとも誤解しやすいかもしれません。
わたしたちが、そうあらねばならないのだ。
神をまだ知らないでいる人々の間で立派な生活をして、証しを立て、感化を及ぼし、
信仰に導かねばならないのだと考えてしまいます。
しかし「立派な」と訳された言葉は、「美しい」と訳すこともできる言葉です。
美しい生活。それは、自分が美しくなるよりも、美しくなられた神を見つめる生活です。
十字架の上で、神は美しくなられました。
すべてを与え、極みまで愛し、死んでくださいました。
ここでも、働いてくださるのは神です。
わたしたちはただひたすらに神を見つめ続けたらいい。
すると、周りの人たちも、わたしたちの姿が映し出している十字架の光を見つめることになります。
それによって、その人たちも「訪れの日に神をあがめるようになります」。