2021年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*9月5日 「苦しみの中で希望を語る」

ペトロの手紙一、3章13~17節


「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(15節)


主イエスのことを、家族や友人たちに伝えたい、伝道したいと願います。

しかし、なかなか容易なことではありません。

きっかけを見つけることが難しいし、思い切って話しても、聞いてもらえないかもしれません。

ところが、自分からは話せなくても、わざわざ相手のほうが聞きたがることがあるというのです。

「あなたがたの抱いている希望について」です。


なぜ希望を失わないでいられるのか。

打ちのめされていても、なぜ絶望してしまわないのか。

不思議に思い、聞かずにはいられなくなる。

そのときには、いつでも語りたいと思います。

キリストがいてくださるから。

何があっても、わたしはキリストのものとされているから。

だから、決して失われることのない希望があります。

やがて永遠に神を喜びながら生きることになる、命の希望です。

*9月12日 「将来と希望の計画」 矢田洋子先生

エレミヤ書29章4~14節


特別な説教者として、東京女子大学で聖書を教えておられる矢田洋子先生が説教をしてくださいます。


エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。

紀元前6世紀、王国が滅亡していく時代に神の言葉を語りました。

涙を流しながら、このままでは滅びに至るだけだと語り続けました。

しかしエレミヤは、滅びを語り、神の裁きを語っただけではありません。

裁きの先にある救いについても語りました。

神が立てていてくださる計画は、災いの計画ではなく、平和の計画だというのです。


わたしたちの世界も、エレミヤが生きた世界と、本質的には何も変わりません。

危機に瀕しています。

どこにも光が見えません。

神が歴史を支配しておられるとしても、それは災いに至り、滅びに至る計画ではないかと感じてしまいます。

しかし、神はわたしたちにも言われます。


「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

*9月19日 「あの方のように」 伊藤悟先生

マルコによる福音書9章30~37節


特別な説教者として、青山学院大学で聖書を教えておられる伊藤悟先生が説教をしてくださいます。


主イエスが歩まれた道は、十字架の道行きです。

わたしたちのために苦しみ、十字架にかけられて殺されることになります。

そのことを主イエスがはっきりと予告なさった直後に弟子たちが語り合っていたのは、

だれがいちばん偉いかということでした。


わたしたちは、偉くなりたい、大きくなりたい、成功したいと願います。

しかし主イエスは、どこまでも低く降り、小さくなり、仕える者になってくださいました。

愛するからです。

どんな人をも救うためです。

*9月26日 「死を超える望み」

ペトロの手紙一、3章18~22節


特別な説教者として、青山学院大学で聖書を教えておられる伊藤悟先生が説教をしてくださいます。


使徒信条で主イエスについて告白する中に、主イエスは十字架にかけられて死に、
葬られた後、「陰府(よみ)に降り」という言葉が出てきます。

主イエスの陰府降りについては、聖書にはほとんど語られていません。

ただ一つの箇所が、今回の聖書の箇所の中にあります。


「霊においてキリストは捕らわれていた霊たちのところに行って宣教されました」(19節)

と言われています。


これはいったい何を語っているのか。

ある人はこの節を「聖書全体の中でも、もっともわかりにくいところ」と言っています。

たしかにそのとおりですし、聖書がはっきり語っていないことについて、
あれこれと空想の翼を広げ過ぎない方がよいと思います。


ただ、この箇所の全体が伝えようとしていることははっきりしています。

主イエスの救いの力が及ばないところはどこにもないということです。


神からもっとも遠く離れたところにまで主イエスは来てくださり、
もっとも救われがたい者を主イエスは救い出してくださいます。