2021年06月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*6月6日 「新しく創造される」

ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節


キリストの使徒パウロが書いた手紙です。

その締めくくりにパウロはこう書いています。


「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」


「焼き印」というのは、家畜に焼きごてでつけたしるしです。

持ち主がわかるようにするための目印です。

奴隷の体につけることもあったそうです。

パウロには「イエスの焼き印」が押されていて、自分が主イエスのものであることがはっきりしている、というのです。


パウロの体にいったいどんなしるしがついていたのか。それはわかりません。

一つの解釈は、パウロはしばしば迫害を受け、死にかける目にも遭いましたから、

体にたくさんの傷跡が残っていて、それを指しているのではないかというものです。


いろいろな苦しみを受けた。傷跡が残った。

それは主イエスのための苦しみだったのだから、自分が主イエスのものであるしるし、主イエスのために生きていることのしるしだ。


そう語るパウロは、自分がしてきたことを誇っているのではありません。

自分のようなものが主イエスのものとされてしまったことへの静かな喜びにあふれています。

*6月13日 「居場所のない人たちへ」

ペトロの手紙一、1章1~2節


「ガラテヤの信徒への手紙」を読み終わり、「ペトロの手紙一」を読み始めます。


キリストの使徒ペトロが書いた手紙です。

そのあて先は「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」です。

これは、文字どおり故郷を失ってどこかに寄留している人たちがいて、その人たちに宛てた、ということではないようです。

そうではなくて、キリスト者というのはだれでも、ほんとうの故郷、天の故郷を離れ、

今は地上に離散して、仮住まいをしている人たちなのだと考えているわけです。


現代社会の大きな問題の一つが「難民」の問題です。

自分の国に戦火が起きたり、厳しい迫害にさらされたり、食べる物がなくなったりして、

自分の国を離れ、別の国に避難しようとする人たちです。


命からがら逃げだしてきたものの、逃げていった先に何の保証もありません。

そこで、何とかして生き延びていかなければなりません。

考えてみると、神の民はしばしば難民でした。


奴隷の家となったエジプトから脱出した難民、

支配者となったアッシリアやバビロニアに連れていかれた難民、

それらの国々から帰還しようとする難民…。


そのような旧約聖書の民ばかりでなく、キリスト者もまた難民なのだとペトロは言います。


この世によりどころを持たない。

この世に腰を据え、根を生やし、埋没してしまわない。

仮住まいの身は心細いものです。


しかし、天国の市民として、神により頼むことができます。

仮住まいの身だからこそ、天の故郷を指して、軽やかにこの世を駆け抜けることができるのです。

*6月20日 「天使より高く歌え」

ペトロの手紙一、1章3~12節


「神がほめたたえられますように!」


挨拶が終わったとたんに、ペトロははじけるように賛美の言葉を語ります。

賛美がわき上がってくるのです。

それは、神が救いの神でいてくださるからです。

それなら「救い」とは何でしょうか。


ペトロは、聖書の中でもここにしか使われていない言葉で説明します。


「神はわたしたちを新たに生まれさせてくださった。」


新しく生まれること。新生です。

宗教改革者のルターは言いました。


「わたしは死んだ。どこでか。あのゴルゴタ(=主イエスの十字架が立てられた丘)において。キリストの死において。」

そしてキリストと共に甦った。


新しく生まれさせられたのは、神を賛美するためです。

新しい命は、永遠の神をほめたたえながら生きる命です。

その新しい命は、すでに始まっています。

*6月27日 「聖なる者となれ」

ペトロの手紙一、1章13~21節


神がわたしたちにお語りになります。


「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。」


わたしたちをたじろがせる言葉です。


しかし「聖」という言葉の意味は、聖書においては、わたしたちが考える意味とはかなり違っているようです。

聖書が語る「聖」とは、清いというよりも純粋であること、そして全体的であることを意味しています。


たとえば「愛する」ことにおいて、混じりけなく、しかも心の一部分ではなく、心の全部を傾けていること。

神はわたしたちを愛することにおいて、そのようでいてくださるというのです。

その神の心を思いながら生きるとき、わたしたちの心もまた、神の心を映し出すようになります。


わたしたちもまた心を尽くして神を愛するようになります。

「聖なる者となれ」という言葉は、神との深い交わりへと招く言葉です。