2022年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

2月6日「苦しむことで救う」

ヘブライ人への手紙2章5~18節


ヘブライ人への手紙は、聖書の他の書物とは違った形で主イエスを語ります。

第1章では主イエスを「御子」と呼び、神の右の座に着いておられる方として語り出しました。

高い天から語り始め、第2章では、十字架の深みへと一気に降ります。


「イエス」というお名前が、2章9節で初めて使われます。

「イエス」は、人としてお生まれになってつけられた名前です。

神の御子は、血と肉を備えてわたしたちと同じになり、わたしたちの兄弟となってくださいました。

もともと人々を救いに導く者と定められていましたが、「数々の苦しみを通して」完全な者とされました。

「完全な者とされた」というのは、「完成された」ということです。

永遠の神である方が、完全な者とされた、完成された、というのは、驚くべきことです。

もともと完全な神であられたのです。


その方が、完全に人間になられた。人間を救う者として完全な者とされた。

それが、「苦しみを通して」であったというのです。


ここには、神の深い秘義があります。

わたしたちの思いを超えたことですが、わたしたちを救うためには、神が苦しむことが必要でした。

主イエスは、苦しむことでわたしたちを救ってくださったお方です。

2月13日「わたしたちこそ神の家」

ヘブライ人への手紙3章1~6節


2章17節にこうありました。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となった。」


ヘブライ人への手紙は、「主イエスは大祭司である」と告げる書物です。

ですから、「大祭司」という言葉は、この手紙を読むときにカギとなる言葉の一つです。


その「大祭司」という言葉が、この手紙で初めて出てきました。

主イエスが十字架の上で血を流し、死なれたことにはどういう意味があるのか?

このもっとも大切な問いに対して、この手紙は、「それは大祭司としての働きだったのだ」と答えることになります。


しかし、それはまだ少し先のことで、今日の箇所では、「大祭司であるイエス」「神の家を忠実に治められる」と語られています。

「神の家」とは、旧約聖書では神殿を意味していました。

旧約聖書の祭司は、神殿で祭儀に携わっていました。

それは実は、ほんとうの大祭司である主イエスのことを予告していたのでした。

主イエスこそが、神の家を守り、清め、治めてくださいます。


それでは、主イエスが治めてくださる「神の家」とは何でしょうか。

わたしたちこそが、主イエスが住み、主イエスが清めてくださる神の家です。

2月20日「今日、神の声は響く」

ヘブライ人への手紙3章7~19節


イスラエルはエジプトで奴隷でしたが、神によって助け出され、エジプトを脱出しました。

この「出エジプト」の出来事が旧約聖書の中心にある出来事です。


エジプトを脱出したイスラエルは、荒れ野を旅しました。

荒れ野は岩石砂漠です。文字どおり荒れ果てて何もありません。

水も食料となるものもありませんから、十分な備えがなければ生き延びることができません。

広大ですから、導く者がいなければ、たちまち迷って、出られなくなります。

たいへん厳しい場所です。

飢えと渇きに悩まされ、正しい道を進んでいるのかどうか不安になります。

荒れ野に入ったイスラエルが、すぐにつぶやき、不平を言い出したのは無理もないことです。


けれども、エジプトからの救出は神のみわざです。

イスラエルは、神の救いの中にいます。神の救いの出来事のただ中にいます。

そして神はいつもイスラエルに語りかけて、「わたしはここにいる。あなたと共にいる」と告げていてくださいます。

だからこそ、こう言われます。


「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」


旧約聖書のイスラエルだけではありません。

わたしたちも同じです。

人生の荒れ野を歩んでいます。

やはりつぶやきがもれます。


しかし、わたしたちもまた、すでに神によって助け出され、神の救いの出来事の中に置かれています。

大切なのは、神の声を聞くことです。

神の声を聞いて、柔らかな心で神に応えることです。

*2月27日「心の深みに届く言葉」

ヘブライ人への手紙4章1~13節


「信じたわたしたちは、安息にあずかることができるのです。」


神が与えてくださる救いが、「安息」という言葉で言い表されています。

わたしたちの信仰の言葉の中に、「安息」という言葉は入っているでしょうか。


信仰について語るときに、「安息」という言葉はあまり使わないかもしれません。

しかし考えてみると、天地創造が語られる所で、「安息」という言葉が出てきました。

神は七日間で天地を創造されましたが、その最後の日、七日目に、神は安息なさいました。

そして神が安息なさった日が創造の完成の日でした。

神はこの日を祝福し、わたしたちも休むようにとお定めになりました。


そうしてみると、創造の目的は安息に至ることであり、命の目的は神の安息に入ることだということになります。


わたしたちは自分の命のことを考えるときに、何事かを成し遂げたいとか、功績を残したいとか、人の役に立ちたいとか、子や孫に何ほどかのものを残したいとか考えます。

そのために懸命に働きます。

休むのは、元気を取り戻して、また働くためです。

しかしその一方で、いつも疲れ果てていて、休みたい、憩いを得たい、安らぎがほしいとも願っています。


そうやって待ち望んでいた休日を迎えると、無為に過ごしてしまうか、あるいは、なんとしてでも有意義な時にしようとして、また疲れ果てることになるか、いずれにせよ、なかなか満ち足りた休日を過ごすことができません。


わたしたちは、休むとはどういうことかを知らないのです。

何がわたしたちに安息を与えるのかを知らないのです。

神がわたしたちに与えようとしていてくださるのは、ほんとうの安息です。

神のみもとにこそ、安らぎがあります。