2022年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*4月3日「神の名はイエス」

ヨハネによる福音書18章1~14節


主イエスのご受難を覚える受難節を過ごしています。

ヨハネによる福音書では13章から17章までかけて、最後の晩餐のことが語られました。

主イエスは食事の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗われました。

それから、長い説教をされました(「告別説教」と呼ばれます)。

最後に祈りをささげられました(「大祭司の祈り」と呼ばれます)。

今回読むのは、それに続く箇所です。

主イエスは園に出て行かれ、そこで一隊の兵士たちに捕らえられ、大祭司の屋敷に連行されることになります。

この場面でたいへん印象的なのが、主イエスの「わたしである」というお言葉です。

聖書の元の言葉では、二つの単語です。「エゴー・エイミ」とあります。

「エゴー」は「わたし」、「エイミ」は「いる、ある、……である」を意味します。

「エゴー・エイミ」は、英語で言えば「アイ・アム」です。

わたしはいる。(それは)わたしである。


「わたしはある」というのは、旧約聖書では神のお名前そのものです。

神はモーセにご自分の名前を告げて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました(出エジプト3:13)。

ですから、主イエスはここで、神の名をもって名乗り出られたことになります。


それにしても、「わたしはある」とは不思議な名前です。

存在そのものだということでしょう。

「エゴー・エイミ・なになに」と続けば、「わたしはなになにである」という文になります。

しかし、「なになに」のところにどんな言葉を入れても、十分ではありません。

なにも加えずに「エゴー・エイミ」とだけ言い切るしかありません。

しかも、ただ存在しておられる、生きておられる、というだけではありません。

それを名前にし、そう告げてくださいます。

「わたしだ」と。「わたしがいるのだ」と。「わたしが確かにいるではないか」と。


この聖なるお名前をもって、主イエスはお立ちになります。

主イエスが「わたしである」と言われると、兵士たちは後ずさりして、地に倒れたのでした。

*4月10日「この人を見よ」

ヨハネによる福音書18章38節後半~19章16節前半


今日は棕梠の主日です。今日から受難週が始まります。

礼拝においては、主イエスに死刑の判決が下される箇所を読みます。


主イエスはローマ総督ピラトのもとで裁判にかけられました。

ピラトは、主イエスに何の罪もないことを知っていました。

三度にわたってそのことを明言しています(18章38節、19章4節、6節)。

しかしユダヤ人たちは初めから主イエスを死刑にすると決めていました。

「十字架につけろ」と叫び続けます。

ピラトは群衆をなだめるために主イエスを皆の前に引き出しました。

茨の冠をかぶせられ、紫の服を着せられてあざけられ、鞭で打たれて血みどろになっているみじめな姿を目にすれば、群衆も満足するだろうと思ったのでしょう。

主イエスを連れてこさせて、「見よ、この男だ」と言います。

この人を見よ。ピラトの目には、無力な犠牲者です。

この人を見よ。ユダヤ人たちの目には、民を惑わし、騒ぎを起こすやっかい者です。

この人を見よ。わたしたちの目には、愛する救い主です。

主イエスは黙って苦しみに耐え、辱めを忍び、十字架の死を引き受けてくださいました。

わたしたちを最後まで、そして極みまで愛しとおしてくださいました。

この人を見よ。そこにおられるのは、どこまでも苦しんでくださったお方です。

この人を見よ。そこにおられるのは、どこまでも愛してくださったお方です。

*4月17日「復活の主との食事」

ヨハネによる福音書21章1~14節


(執筆中)

*4月24日「新しい人を身に着けて」

コロサイの信徒への手紙3章1~17節


(執筆中)