2022年1月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*12月4日 「渇いている者は来るがよい」

イザヤ書55章1~11節


キリストの到来に感謝し、キリストの再臨を待ち望む「待降節」を過ごしています。

待降節の間は日本基督教団出版局の聖書日課編集委員会が定めた「主日聖書日課」に従って聖書を開いています。


旧約聖書のイザヤ書は66章から成る大きな書物です。

預言者の言葉は筆記され、大切に保存されただけでなく、後の時代の人たちも、自分たちのこととして受け取りなおし、自分たちの状況へと新しく解釈し、さらには新しい言葉を付け加えることもしました。

預言者の信仰に支えられ、導かれて生きる人々が、預言者の精神を生かして、新しい時代のための言葉を語りました。

預言者の弟子たちの中から、新しい預言者が生まれました。

預言者の言葉は、そのようにして、いつも「今、ここで」の言葉として聞かれてきました。

それとともに、預言者の言葉を集めた書物は、長い時間をかけて拡張され、編集されました。

イザヤ書もそのような書物の一つです。


紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉を土台としつつ、数百年にわたるさまざまな人の言葉が重なり合っています。

一つ一つの言葉が、どの時代のだれに由来するのかを知ることはなかなかできないのですが、ごく大雑把に言うと、1~39章には預言者イザヤ自身の言葉が多く収められ、40~55章には紀元前6世紀半ば、捕囚期の後期に生きた無名の預言者(仮に「第二イザヤ」と呼ばれます)の言葉が収められ、56~66章にはさらに後(紀元前6世紀の終わり?)に活動した別の預言者(たち?)(一人か複数かもわかりませんが、便宜上「第三イザヤ」と呼ばれます)の言葉が収められています。


「第二イザヤ」(イザヤ書40~55章)で目立つのは、「神の僕」と呼ばれる謎めいた人物について歌う歌が出てくることです。

四つの歌を数えることができます。

42章1~9節、49章1~13節、50章4~11節、52章13節~53章12節です。

とくに最後の歌は、旧約聖書の中で、もっとも鮮明に主イエスのお姿を語っています。

この歌を受けて、イザヤ書55章は第二イザヤの締めくくりの章になります。


イザヤ書55章は、小見出しが示しているように「御言葉の力」を語ります。

10節、11節のたとえはとても印象的です。

天から雨が降れば、ぬれずにすむものは何もありません。

すべてをぬらし、土を潤し、植物を成長させ、飲む水にもなります。

どの一滴も働きます。むなしく消えてしまうことはありません。

そのように、神の言葉は神の口から出て、その一言一言が働き、神の御心を成し遂げるというのです。

これは、神のすべての御言葉に言えることですが、とりわけ神の永遠の御言葉であられる主イエス・キリストのことを語っています。

主イエスは天から降り、神の「望むこと」、神が」「与えた使命」、すなわち、わたしたちを罪から救う御業を成し遂げてくださいました。

それゆえに、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」(1節)と呼びかけられています。

そしてこの言葉を受けて、主イエスご自身が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。

主イエスこそが恵みの雨、命の水です。

*12月11日 「愛によって新たに」

ゼファニヤ書3章14~18節


預言者ゼファニヤ「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に」(1:1活動しました。

おそらく紀元前630年頃です。(同じ時代にエレミヤも活動しました。)

イスラエル王国は南北に分裂しましたが、北王国イスラエルは、すでに紀元前721年に滅んでいます。

南王国ユダが、最後にもう一度神に立ち帰ろうとしたのがヨシヤ王の時代です(列王記下22~23章)。

その前のマナセ王アモン王は神に従いませんでした。

それに対してヨシヤ王「主の目にかなう正しいことを行い」(列王下22:2)、神殿を修理し、申命記に基づいて偶像礼拝を一掃する改革を行いました。

しかし、志半ばにして戦死してしまいます。

ヨシヤ王の後は、ヨシヤの子と孫にあたる5人の者たちが次々と王になりましたが、王国は坂道を転げ落ちるように衰退し、紀元前587年に最終的に滅亡します。

預言者ゼファニヤが活動したのは、王国が滅びる40年ほど前。

ゼファニヤは、神の裁きによる滅亡が間近に迫っていることを語らなければなりませんでした。


ゼファニヤ書は3章しかない小さな書物であり、その内容は一貫して厳しい裁きの言葉です。

しかし最後の最後、3章9~20節には「その後」という言葉に導かれて、救いの言葉が語られます。

裁きの言葉は、神の最後の言葉ではありません。

裁きを通して、神は救おうとしておられます。

救いは、「主はお前に対する裁きを退け」(3:15)てくださることでもたらされます。

簡単に言われていますが、これは、ただ「水に流す」といったことではありません。

それでは、わたしたちの罪と背きの解決にはならないからです。

それなら、どうするのか。

神はわたしたちに対する裁き、わたしたちに向けられた告発状と、わたしたちを罪に定める判決文とを取り上げ、それらをすべて、主イエスの十字架にくぎ付けにしてしまわれました(コロサイ2:14参照)。

すべてを主イエスが、わたしたちの代わりに負ってくださいました。

わたしたちに残されているのは、ただ喜び、感謝することだけです。


後に、預言者ゼカリヤは、ゼファニヤ書3章14節の言葉をなぞるようにして、終わりの日の喜びを語りました(ゼカリヤ9:9)。

その際、ゼカリヤは、この喜びが「ろばに乗ってくる」王の到来によってもたらされるのだと告げました。

それこそ、主イエスがろばに乗ってエルサレムにお入りになったときに実現したことでした(マタイ21:1~11。5節にゼカリヤ書が引用されています)。

*12月18日 「狼が小羊と共に宿る」

イザヤ書11章1~10節


預言者イザヤは人々に神に立ち帰るようにと語り続けました。

しかし、神に帰ろうとしない人々に、裁きの到来を語らなければなりませんでした。

イザヤの言葉の多くは神の裁きの言葉ですが、その中にさしはさむようにして、イザヤはメシアの到来を預言する言葉も語っています。


「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み

その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。


「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、『驚くべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君』と唱えられる」(9:5)。


イザヤ書11章もメシア預言です。

ここで預言されている王は


「目に見えるところによって裁きを行わず

耳にするところによって弁護することはない」(3節)


と言われています。

王として統治することは、何よりも「裁く」こと、つまり、物事や出来事を理解し、判断し、決着をつけ、それを実行することによって行われます。

わたしたちの世界では、十分に見たり聞いたりすることなく決定が行われることも少なくありません。

それを思えば、目に見えるところによって、耳にするところによって裁きを行うだけでも、ずいぶんましなことであるに違いありません。

しかし、たとえよく見て、じっくり聞いたとしても、まだ十分ではありません。

見えないように隠されていることがあり、言葉にできない思いがあるからです。

メシアはわたしたちの魂のもっとも深いところにまで御手を伸ばし、すべての思いを救い上げてつぶさにご覧くださり、またわたしたちの声にならない嘆きも、うめきも、沈黙も、聞き取ってくださいます。

このお方がいてくださるところに、平和があります。シャロームがあります。


シャロームとは、傷ついたり、損なわれたりすることなく、命が生き生きとみなぎり、あふれ出している状態のことです。

ここで、すべての対立が、葛藤が、憎しみが、軽蔑が終わりを告げます。


「狼は小羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く」(6節)。


これが、メシアである主イエスによって与えられる、わたしたちの将来です。

*12月25日 「奪われることのない喜び」

ルカによる福音書2章8~14節


クリスマスおめでとうございます!

神が人となり、わたしたちのところに来てくださいました。

神の受肉の秘義を覚え、神の御名をたたえます。


クリスマスに何が起きたのかを告げるのは、人間の言葉ではありません。

天からの言葉です。

主の天使が近づいて語ります。

天使がまず言うのは「恐れるな」という言葉です。

恐るべきことが起きているからです。

神が人となり、しかも赤子となってお生まれになるという、神の愛の秘義です。

こんなにも小さく、こんなにももろくなって、わたしたちにすべてをゆだねてしまわれます。

恐れずには近づけない、聖なる愛と信頼です。

しかし天使は「恐れるな」と告げて、この秘義に近づくようにと招いています。

天使が次に言うのは喜びです。


「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」


主イエスの誕生は、恐れに代えて喜びを与えます。

天はどよめき、天の大軍がはじけるように声を上げて歌いだします。


「いと高き所には栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」


一行目はラテン語では「Gloria in excelsis Deo」となります。

そこで、この歌全体も「グロリア」とか「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」と呼ばれ、教会の賛美歌として歌われてきました。

この歌には、実はいくつかの理解があります。


まず、「御心に適う」という単語を「人」にかかる語ではなく、主語にしている写本があります。

天使の歌を3行から成っていると読むことになります。


「いと高き所には栄光、神に

地には平和

善意は人に」


「こどもさんびか」の78番「とおくのひがしから」のなかで、「神には さかえあれ 世界に 平和 人には めぐみあれ」と歌われているのは、この理解によります。


天使の歌を2行で読むけれども、「地には」という言葉は1行目に含まれているとする理解もあります。

そのように区切ると、1行目は「栄光は」で始まり、2行目は「平和は」で始まって、行の始まりがそろうことになります。


「いと高き所で神にある栄光が地の上にもある。

「平和は、御心に適う人にある。」


天使たちが驚いて歌ったのは、主イエスの誕生によって、神の栄光が地上に来ているのを見たからだ、という理解です。


いずれも魅力的な読み方ですが、わたしたちの聖書のように読むのがいちばん自然な読み方であるようです。


「いと高き所には栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」


「地には平和」と願います。

天使は、それに先立って、「栄光神にあれ」と歌いました。

自分の栄光を求めるとき、平和は破れます。

すべての栄光を神にお返しするところにこそ、ほんとうの平和があります。

神が栄光を現されたのは、主イエスの十字架においてです。

最後の最後まで愛し通し、すべてを与えつくすことが神の栄光でした。

十字架の足もとで、わたしたちの栄光はみすぼらしくなり、栄光を求める思いは恥ずかしいものとなります。

「十字架の主に栄光」とわたしたちは歌います。

そこに平和があります。