2022年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*9月4日「賛美のいけにえを神に」

ヘブライ人への手紙13章1~17節


8月は「伝道月間」として、「主の祈り」に思いを集めました。

9月に入り、再び「ヘブライ人への手紙」を読み進めます。


ヘブライ人への手紙は、主イエスが「大祭司」であると語り、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:12)と語ります。

人間が献げ物をする礼拝は終わりました。

主イエスが「ただ一度」、御自身をいけにえとして献げて、罪を取り除いてくださいました。

それなら、わたしたちは何の献げ物もしないのでしょうか。

この手紙は、最後の章でこう語ります。


「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」(13:15)。


罪を赦していただくための献げ物は、もはや必要ではありません。

しかし、罪赦された者は、感謝を献げます。賛美を献げます。


「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8)。


ですから、主イエスによる救いも変わることなく確かです。

わたしたちに残されていることは、ただひたすらに神を喜び、ほめたたえることだけです。

*9月11日あなたのために目覚めている

ヘブライ人への手紙13章17~25節


教会の「指導者」について、この人たちは「あなたがたの魂のために心を配っています」(17)と言われています。

ここで「心を配る」と訳された言葉は、興味深い言葉です。

「目を覚ましている」(田川建三訳)、「不眠している」(岩波書店版)と訳している聖書もあります。これが直訳です。


なぜ目を覚ましているのかというと、羊飼いなどが「寝ずの番をして見張る」ためです。

ですから、新しく出た聖書協会共同訳は「見張りをしている」と訳しました。


昼も夜も目覚めて、見守っている。
目覚めて、一人ひとりの魂を覚えて祈っている。

ここは直接には「指導者」のことを語っているのですけれども、彼らがそのようにするのは、主イエスからその務めを託されているからです。

主イエスこそが「永遠の契約の血による羊の大牧者」(20)です。

主イエスがわたしたちの魂の見張りをし、御父のもとへ、天の故郷へと至らせてくださいます。

*9月1「迫りくる神の語りかけ」

ヨハネによる福音書1章1~14節


ヘブライ人への手紙を読み終えて、新しく「ヨハネによる福音書」を読み始めます。

マタイマルコルカの三つの福音書はお互いに似ているので、「共観福音書」と呼ばれます。


それに対して、ヨハネによる福音書だけは違っています。

始まりからして違います。

マルコによる福音書は、主イエスの公のご生涯から語り始めました。

マルコよりも後に書かれたマタイとルカの福音書は、さかのぼって、主イエスのご降誕から語り始めました。


ところが、ヨハネによる福音書は「初めに言があった」と言って始まります。

さかのぼるどころではなく、そもそもの、すべての初めから語り出すのです。

「初めに」という言い方はまた、創世記の最初の言葉を踏まえています。

聖書のいちばん初めの書が、「初めに、神は天地を創造された」と言って語り出している。

それと響き合わせながら、その天地創造の初め、すべての初めから、主イエスはおられたのだ、というのです。

たいへん大きな構えの語り方です。


少し先の18節では、主イエスを「独り子である神」と呼んでもいます。

ヨハネによる福音書は主イエスが神であられることを、初めから明瞭に示しながら語ります。

主イエスの「栄光」(14)があります。

それは「父の独り子としての栄光」、神としての栄光です。

しかしそれは、まったく思いがけない、信仰によってしかとらえられない栄光でした。

9月25日恵みの上に、さらに恵みを

ヨハネによる福音書1章14~18節


主イエスを見るとき、わたしたちは神を見ています。

主イエスを見れば、神がどなたであるかがわかります。

神の恵みが見えてきます。

ですから、福音書を読み進めながら、主イエスを見つめ続けたいと思います。


主イエスを信じる者は恵みを受けます。

しかも、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(16)と言われています。

「恵みの上に、さらに恵み」。なんとうれしいことでしょうか。

恵みもあるが、試練やこらしめもある、というのではないのです。

恵みばかりがある。

主イエスはわたしたちに良いものだけを与えてくださいます。

恵みを与えて、その上に、さらに恵みをくださる。


もとの言葉で読むと、ここは不思議な言い方しています。

「恵みの上に」と訳されたところは、「上に」という字ではなくて、「対して」という字を使っています。

「アンチ」という単語です。
「巨人嫌い」のことを「アンチ巨人」という時の「アンチ」です。


恵みに対して、恵みに対抗して、恵みを。

アンチ恵みの恵みを。

ただ同じ恵みが積み重なっていくのではないようです。

前の恵みを覆してしまうような、もっと大きな恵みを受ける。

岩波書店から出ている聖書は「恵みに代わる恵みまでも受けた」と訳しました。


主イエスを信じる者が経験するのがこれです。

恵みの上に、もっと大きな恵みを受けた。

恵みに代えて、思いを越えた恵みを受けた。

御言葉に聞くことを通して、恵みをいただく経験を重ねていきましょう。