★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
マタイによる福音書5章9~10節
日本キリスト教団では8月の第一主日を「平和聖日」としています。
第二次世界大戦において広島と長崎に原爆が投下され、敗戦を迎えたのが8月でした。
戦争の恐ろしさを想い起こすこの時、不戦の誓いを新たにし、平和を祈り求めたいと思います。
主イエスが「幸い」についてお語りになった印象深い言葉があります。
「幸いである」という言葉が八回繰り返されるので、「八福の教え」などと呼ばれます。
幸いについて語っているのですけれども、その冒頭でこう言われます。
「心の貧しい人々は、幸いである。」(3節)
ただ事ではありません。
わたしたちが知らない幸い、わたしたちが知っているのとは、まるで反対の幸せを語っています。
ここで語られる八つの幸いのどれ一つとして、神を抜きにして考えられるものはありません。
わたしたちだけのことを考えたら、決して本当ではありません。
しかし、神の御前に立つときに、これらこそが、ほんとうの幸いです。
その中で言われています。
「平和を実現する人々は、幸いである。」(9節)
わたしたちは今、どれほど平和を願っていることでしょう。
感染症がお互いの間を隔て、平和を奪っています。
戦争や紛争や弾圧が、人々の生活や尊厳を、人の命さえも損ねています。
聖書が語る「平和」は、苦しみや争いがないというだけではありません。
命が満ち足りていて、心も体も健やかであり、欠けたところがないことを言います。
そのような平和は、ただ主イエスによってもたらされます。
主イエスが、平和を壊すものをすべて引き受け、取り去ってくださったからです。
そして、主イエスの平和を与えられた人は、今度はその人が平和をもたらす人、平和をつくりだす人となります。
まさしく「神の子」として歩み出します。
マタイによる福音書6章5~13節
8月。学校は夏休みを迎えています。
キリスト教学校の生徒、学生たちの中には、夏休みを利用して教会の礼拝に出席してくださる方々もあることでしょう。
そのような方々を歓迎します。
わたしたちの教会では8月を「伝道月間」とし、キリスト教学校の皆さんを祈りつつお待ちしています。
今年の伝道月間では、「主の祈り」に思いを集めます。
「主の祈り」は、主イエスご自身が「こう祈りなさい」と言って教えてくださった祈りです。
ルカによる福音書によると、弟子たちが「祈ることを教えてください」と願ったのに答えて、主イエスはこの祈りを教えてくださいました。
だから、「主の祈り」を知ることで、たくさんある祈りの一つを知るだけでなく、「祈ること」そのものを知ることにもなります。
では、祈るとはどういうことでしょうか。
祈るとは、まず何と言っても、「わたしたちの父よ」と呼ぶことです。
教会の祈りに慣れている人にとっては、何でもないことかもしれません。
しかしこれは、驚くべきことです。
主イエスは神を指して、何度も「あなたの父」とお語りになりました。
そして、祈る時には、まったく単純に「お父さん」と呼んだらよいと言われました。
神はあなたを見つめ、あなたに必要なものを知り、それを与えたいと願い、祈りを待っておられます。
この方に向かって、ただ「お父さん!」と呼んだらいいのです。
それが祈りです。
マルコによる福音書1章14~15節
主の祈りは六つの祈願からできています。
前半の三つの祈願には「御名」 「御国」 「御心」という言葉が出てきます。
「あなたの名前が」 「あなたの国が」 「あなたの意志が」と言うのです。
最初に、神の御名があがめられますように、と願います。
神が神とされること、神が賛美されることを願います。
これがまず必要であることは、よくわかるのではないでしょうか。
それに続いて、神の国が来ますように、と願います。
こちらは、わたしたち自身からはなかなか出てこない願いかもしれません。
そもそも、信仰や救いのことを考えるとき、「神の国」という言葉を使うことはないのではないでしょうか。
しかし考えてみると、主イエスが世に出てお語りになったのは、「神の国は近づいた」という宣言でした。
主イエスが告げ知らせてくださったのは、「神の国の福音」であったと言っていいのです。
つまり、信仰や救いのことを考えるとき、自分の魂のことだけ考えるのでは、その考えは小さすぎるということです。
体のことも、生活のことも、人生全体のことも含まれます。
それでもまだ小さすぎます。
福音は、もっともっと大きいのです。
「神の国」では、神の御心が隅々まで貫かれていて、命と幸いに満ちていることでしょう。
その神の国がわたしたちのところにまで来てしまいます。
わたしたちを、わたしたちの人生全体を、この世界のすべてを飲み込み、覆い尽くしてしまいます。
それが、主イエスが告げてくださったことです。
それが、主イエスが実現してくださったことです。
それが、今ここで、わたしたちの現実になりますように。完成しますようにと祈ります。
ルカによる福音書23章32~34節
主の祈りの後半は、わたしたちのための祈願です。
「わたしたちのパン」を願い、
「わたしたちの罪の赦し」を願い、
「わたしたちの試みからの救出」を願います。
わたしたちのことを願うのにあたって、パンと赦しを願います。
パンと赦しとが、わたしたちにとってどうしてもなくてはならないものだからです。
パンがなければ、そして罪を赦していただかなければ、わたしたちは生きることができません。
わたしたちにとってどうしても必要なものを、神に願います。
ただ神に向かって手を伸ばし、ただ「ください」と願います。
パンも赦しも、神だけが与えることができるのだと信じ、
神は与えることがおできになるだけでなく、
与えようと望んでもいてくださると信じ、
空の手を伸ばして、神に求めます。
しかしその際、「赦してください」という願いに、「わたしたちも赦しましたように」という言葉が結びついていることも見逃せません。
赦しは、主イエスのゆえに、無条件で与えられるものです。
しかし、無条件で赦されながら、自分は赦さないままでいることはあり得ません。
赦しを受け取る時に、わたしたちは、自分も赦す者へと変えられます。
神の赦しは、わたしたちのような赦されざる者を赦してしまうだけでなく、
わたしたちのような愛のない者を、愛する者、赦す者へと造り変える力を持っています。
主の祈りを祈るたびごとに、わたしたちは主イエスに似たものへと造り変えられていきます。