2021年02月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*2月7日 「むだでない人生」
ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
「ガラテヤの信徒への手紙」を読んでいます。
キリストの使徒パウロが、福音の本質を鮮明に語る手紙です。
キリストの福音は、「ただキリストによって、わたしたちは神から『それでよい』と言っていただける」という知らせです。
「ただキリストによって」ということは、わたしたちがどういう人間であるかとか、わたしたちが何をしたかとか、
そのようなわたしたちの側のことには一切関係なく、ということです。
自分のものにはまったく頼らず、ただキリストに頼り、キリストにゆだねること。
それが聖書の語る「信仰」です。
キリストがしてくださったことを、自分のためのこととして受け取り、ただそれだけをよりどころとすること。それが「信仰」です。
わたしたちは、ただキリストを信じ、キリストにより頼めばよいのです。
なぜなら、キリストはわたしのすべてを引き受け、わたしのために死に、わたしのために生きていてくださるのですから。
だからパウロは語ります。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
*2月14日 「わたしのために呪いとなった」
ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節
イエス・キリストはわたしたちのために苦しみ、わたしたちのために十字架につけられ、死んでくださいました。
キリストの死によってわたしたちは救われました。これがキリストの福音です。
しかし、キリストが十字架につけられて死なれたことと、わたしたちが救われることとは、どう関係するのでしょうか。
使徒パウロは、このように説明します。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」
罪は裁かれ、取り除かれなければなりません。
罪人は呪われ、捨てられ、滅ぼされなければなりません。
その神の裁き、神の呪いは、キリストにおいてこそ見られます。
わたしへの裁き、わたしへの呪いは、キリストの十字架においてすでに済んでいます。
そしてわたしたちには、神の祝福がもたらされることになりました。
ヨーロッパの教会に行くと、礼拝堂の中に十字架だけでなく、十字架につけられたキリストの像が掲げられていることがあります。
それを見た人が「教会はなぜあのようにむごたらしい像を掲げるのか」と聞いてきたことがあります。
そのとおりです。それは、呪いの木についてくださったキリストです。
しかし、キリストが呪いの木についてくださったからこそ、わたしたちは神の子とされました。
*2月21日 「愛の注ぎ方」
マルコによる福音書14章3~9節
2月17日は、教会の暦では「灰の水曜日」です。
この日から復活祭の前日(4月3日)まで受難節となります。
灰や塵をかぶることは、聖書では悔い改めや嘆きの行為でした。
そこから教会では、受難節の開始にあたって、灰をといた水を額につけて悔い改めのしるしとしました。
キリストのご受難を思い、自分の罪のゆえにキリストが苦しんでくださったことを覚えて、悔い改めの時、祈りの時を過ごします。
受難節の間、礼拝ではマルコによる福音書を読みながら、キリストの御足の跡をたどります。
日曜日(棕梠の主日)、主イエスは子ロバに乗ってエルサレムにお入りになりました。
月曜日、主イエスはまず神殿に行き、境内で商売している人々を追い出されました。
火曜日、主イエスは神殿の境内で人々に教え、また論争をなさいます。
そして水曜日、祭司長たちは、何とかして主イエスを捕らえて殺そうと計画しています。
そのころ、主イエスはエルサレムに近いべタニアという村で、香油を注がれました。
「メシア」は「救世主」などと訳されたりもしますが、「油注がれた者」を意味するヘブライ語です。ギリシア語では「キリスト」といいます。
神から特別な使命と力を与えられて、油を注がれて任職されたのは、王、祭司、預言者でした。
それら油注がれた者たちは、主イエスの到来を予告する者たちだったと言えます。
主イエスこそが、神からのまことの王、まことの祭司、まことの預言者として到来なさいました。
しかし、当時の指導者などに認められ、油を注がれたわけではありませんでした。
むしろ、指導者たちは主イエスを殺そうと計画しています。
ちょうどその時、小さな村で、名前も伝えられていない一人の女性が主イエスに油を注いで、
主イエスを文字通り「油注がれた者」、メシア、キリストにしました。
主イエスはこれを、自分の「埋葬の準備」だと言われました。
まことのメシアは、わたしたちのために死んでくださるお方です。
*2月28日 「目覚めた心で」
マルコによる福音書14章32~42節
木曜日、主イエスは弟子たちとともに最後の晩餐をとり、その食事の席で聖餐の礼典を制定してくださいました。
もう夜になっていましたが、主イエスは弟子たちを連れてエルサレムの町を出、
谷を隔てた向かいにあるオリーブ山に行き、山の中のゲツセマネという園にお入りになりました。
祈るためです。
主イエスは、十字架上での死が目前に迫っていることをご存じです。
しかもそれは、父なる神の怒りの杯を受けることであると知っておられます。
主イエスは地面にひれ伏し、祈られました。
父の御心が行われることを求めてお祈りになりました。
目を覚まして祈り続けられました。
目を覚ましているとは、自分の罪を知り、罪からの救いを求め続けるということです。
それ以上に、救いの神がいてくださることに対して目覚めていて、祈り続けるということです。
「目を覚ましていなさい」と繰り返し教えてくださった主イエスは、
眠りこけてしまうわたしたちに代わって、目を覚まし、祈り続けてくださいました。