2021年03月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*3月7日 「裏切る者への愛」

マルコによる福音書14章43~52節


2月17日からキリストのご受難を覚える受難節を過ごしています。

40日間続く受難節も、3月11日には20日目、折り返しの日となります。

主日にはマルコによる福音書を読みながら、キリストの御足の跡をたどっています。


受難節の最後の一週間は受難週といいます。


日曜日(棕梠の主日)、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムにお入りになりました。

月曜日、主イエスはまず神殿に行き、境内で商売している人々を追い出されました。

火曜日、主イエスは神殿の境内で人々に教え、また論争をなさいます。

水曜日、主イエスはべタニアという村で、香油を注がれました。

そして木曜日、主イエスは弟子たちと最後の晩餐を共にされ、

食事の後はゲツセマネという所に出ていかれて、祈って夜を過ごされました。


主イエスと弟子たちがまだゲツセマネにいるところに、群衆が剣や棒を持って押し寄せてきて、

主イエスに手をかけて捕らえました。

群衆を扇動してきたのは、十二人の一人、イスカリオテのユダです。

しかもユダは、だれが主イエスであるかを群衆に教えるために、

「わたしが接吻する人が、その人だ」と合図を決めていました。


接吻は、当時も親愛の思いの表現です。

弟子が師に接吻することも、普通に行われていたそうです。

手や足に接吻することもあったようですが、ユダの場合は、

多くの絵画に描かれているように、主イエスに近寄り、抱擁し、頬に接吻したのでしょう。


愛の表現である接吻によって、主イエスを苦しみと死へと引き渡したのでした。

主イエスは、ユダを突き放すことも、叱ることもなさらず、その接吻をお受けになりました。

そして、ご自分を捕らえに来た者たちにその身を引き渡してしまわれます。


主イエスがご自分のすべてを与えつくされるご受難の歩みの始まりです。

*3月14日 「拒絶する者への愛」

マルコによる福音書14章53~54、66~72節


木曜日の夜です。

逮捕された主イエスは、大祭司の屋敷に連れ込まれます。

そこには「祭司長、長老、律法学者たちがみな」集まっています。

すなわち、ユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)が招集されています。

ユダヤ教では、重大な決定は夜中にしてはならないことになっていました。


しかし、そんなこともおかまいなしに主イエスを死刑にするための裁判が進みます。

その屋敷の中庭には、主イエスを捕らえに行った者たちがたむろしています。


その人々に紛れて、ペトロもそこにいます。

主イエスがどうなるのか、見届けないではいられなかったのでしょう。

主イエスが戦い、脱出しようとするのであれば、

助けに駆けつけようとしていたのかもしれません。


ところが、主イエスの尋問と並行して、ペトロの尋問が始まってしまいます。

「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。仲間なのだ」という告発に対して、

ペトロは三度主イエスのことなど知らないと誓い、呪うことさえしました。

主イエスを否定し、拒絶しているその時にも、

まさにそのペトロのために主は苦しんでおられます。


主イエスはペトロの否認を前もって知っておられ、ペトロに予告もしておられました。

全部知ったうえで、それでもペトロを愛し、赦し、信じ抜いておられます。


主イエスはすべてを受け入れ、だからどこまでも苦しみ、苦しむことでお救いになります。

*3月21日 「だれよりも低くなる王」

マルコによる福音書15章1~20節


ユダヤの最高法院は主イエスを死刑にする決議をしましたが、

ローマ帝国の支配下にあって、だれかを実際に死刑にする権限があるわけではありません。


そこで、金曜日の夜が明けるのを待ちかねて、主イエスをローマ総督ピラトに引き渡します。

祭司長たちはいろいろと主イエスを訴えましたが、ピラトの問いは一つです。


「お前がユダヤ人の王なのか。」


群衆にも問います。


「あのユダヤ人の王を、彼の民であるお前たちはどうしてほしいのか。」


兵士たちは主イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、

「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼しました。


主イエスの十字架には罪状書きとして「ユダヤ人の王」と書いてありました。


主イエスはユダヤ人の王として死なれます。

ユダヤ人の王はメシアであり、神であるはずです。

主イエスはメシアとして、神として死なれます。

メシアであるからこそ死なれます。

ご自分の者たちを生かすためです。

*3月28日 「世界の終わりである十字架」 ※棕梠の主日

棕梠の主日

復活祭の一週間前のこの日、主イエスは子ロバに乗ってエルサレムに入城されました。

人々は歓呼し、棕梠の葉を振って迎えました。

今日から受難週が始まります。

十字架の聖金曜日が祭日である国では、その日に主イエスのご受難を覚える礼拝を献げることができますから、棕梠の主日には文字どおり主イエスのエルサレム入城を覚える礼拝をします。

しかし、わたしたちにとっては、復活祭の直前の主日ですから、

今日、主イエスの十字架上での死を覚える礼拝を献げます。


説教「世界の終わりである十字架」

マルコによる福音書15章33~41節


主イエスが十字架にかけられたのは、午前9時のことでした。

昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。

この闇は終末の到来を示しています。

今や世の終わりが来て、星は光を失い、世界全体が崩れ落ちていこうとしています。

罪人に対する、神の最終的な裁きが下されようとしています。

それは、神から徹底的に捨てられ、真の死を迎えることです。


神から徹底的に捨てられた闇の中で、主イエスはまっすぐに神を向き、「わたしの神よ」と祈られます。

この主イエスの信実こそ、わたしたちに与えられている義です。