2020年02月の礼拝のメッセージ

★わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は、讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*2月2日

ルカによる福音書19章28~44節

説教「神の訪れてくださる時」


主イエスは辺境の地とも言うべきガリラヤ地方で活動しておられましたが、

やがて時が来て、エルサレムに向かう決意をなさいました(9章51節)。


そして、ガリラヤ地方を出て、サマリア地方を通り抜け、

町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでいかれました(13章22節)。


エリコはエルサレムに向かって旅をする場合、

最後の宿場町となります(19章1~10節)。


今日の箇所ではオリーブ山にさしかかりました。

オリーブ山からキドロンの谷を隔てて、向かい側の丘の上にエルサレムがあります。


谷を渡っていく最後の道のりを、主イエスは子ろばに乗って進まれます。

弟子たちは、ほんとうの王が都に入城するのだと思い、高らかに神を賛美しました。


しかし主イエスは、この都のことを思って涙を流されました。

このときから数十年後、ユダヤ人たちは支配者であるローマ人に反逆し、

戦争となり、結局エルサレムは破壊され、神殿も崩されてしまうことになるからです。


滅んでいこうとしている都に、主イエスは子ロバに乗って入っていかれます。

主イエスはまことに低く、弱く、静かになられます。

人間が負っている重荷を、どこまでも深く担おうとなさいます。

*2月9日

ルカによる福音書20章1~19節

説教「神のぶどう園で生きよう」


主イエスはエルサレムに来て、まず神殿の境内に入っていかれました。


ユダヤ人の大切な祭りである過越の祭りが近づいていましたから、

エルサレムに巡礼に来た人たちで境内は混み合っていたことでしょう。


そこでは神への犠牲としてささげるための牛や羊が売られ、

また神殿へのお賽銭に適した貨幣へと両替がなされ、「商売」が行われていました。


神の前に立っていることを忘れ、だから祈りを失い、金もうけをしている。

神殿を私物化し、世界を私物化しています。


主イエスがお語りになったたとえ話は、世界を私物化している者たちの物語です。

世界を私物化し、人生を私物化している者たちは、神を殺すことになる、という物語です。


そういう物語を語りながら、しかし主イエスが知らせたいのは、神の信頼です。


自分のものだと勘違いしてしまうほどに、

神は世界も命もわたしたちに任せきっていてくださいます。


それは、わたしたちを重んじ、

わたしたちがまったく自由に神に応答することを期待していてくださるからです。

*2月16日

ルカによる福音書20章20~26節

説教「神の像を刻まれて」


「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に。」


よく知られた言葉です。

皇帝に対する税金が問題になっていました。

神に逆らっている皇帝に税金を納めることは、神のご意志に適うことなのか。

主イエスにそのように聞いてきた人がいました。


それに対して主イエスは、銀貨を取り出してみてみなさいと言われます。

そこには皇帝の肖像が描かれ、皇帝の銘が刻まれていました。

そこで主イエスは言われます。


「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」


問題は、主イエスの言葉の後半です。

皇帝の像と名前が刻まれたコインや立像や碑文がありました。


それなら、神の像が刻まれ、神の名前が刻まれているものとは何でしょうか。

聖書によると、人間は神の像を刻まれて造られました。


そして洗礼を受けるときに、神の御名が消えることのないように刻み込まれます。


そうだとしたら、「神のものは神に」というのは、

わたしたちの丸ごと全部を神のものとして、

神にささげて生きるようにと招いていることになります。


そこにまことの命があります。

*2月23日

ヨハネによる福音書1章35~51節

説教「最初の弟子たち」 説教者:矢田洋子牧師(東京女子大学)


東京女子大学はプロテスタント・キリスト教の諸派が協力して設立したキリスト教学校です。

初代学長は新渡戸稲造

Service(奉仕)とSacrifice(犠牲)を表す二つの「S」を十字型に重ねた形を校章としています。

2018年に創立100周年を迎えました。


この大学でキリスト教学などを教えている矢田洋子先生に説教をしていただきます。


今日の聖書の箇所は、主イエスの弟子になった人たちが、初めて主イエスに出会ったときの様子を語ります。


アンデレは、自分の師匠が主イエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言うのを聞いて、

主イエスのもとに行きました。


フィリポには主イエスから声をかけて「わたしに従いなさい」と言われました。

ナタナエルについては主イエスが「まことのイスラエル人だ」とお語りになりました。


一人ひとりが、それぞれ別の、不思議な仕方で主イエスに出会い、

主イエスに捕らえられることになりました。


主イエスを信じ、主イエスに従うとはどういうことなのでしょう。

これは、実はあなたの物語でもあります。