2020年09月の礼拝のメッセージ
★わたしたちの教会では、
聖書は、「新共同訳聖書」
讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。
聖書・讃美歌は、教会で用意しております。
*9月6日 「不安からシャロームへ」
創世記43章(1~14節)
先月からヨセフ物語を読んでいます。
旧約聖書の創世記37章から50章まで続く、長い物語です。
崩壊した家庭の和解と再生の物語です。
そのためには、どうしても長い歩みが必要になります。
42章では、エジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフが、自分を売り飛ばした兄たちと20年ぶりに再会しました。
ヨセフは自分の正体を明かさず、10人の兄たちのうちの一人をエジプトに置き去りにさせて、ヨセフを見捨てた過去と向き合わせます。
兄たちは自分の罪を認め、神の働きを予感し始めます。
43章で、兄たちは再びエジプトを訪れます。
厳しい飢饉が続き、エジプトで買い求めた食糧は底をついてしまったからです。
兄たちも、父ヤコブも、弟ベニヤミンも、みな不安の中にいます。
かつてヨセフが失われたように、また息子の一人、兄弟の一人を失うかもしれない。
エジプトでどのようなことが待ち受けているかわからない。
わたしたちは過去に縛られて苦しみ、将来を恐れて不安になります。
この不安は、何をもってしてもぬぐい去ることはできません。
ただ、神が共にいてくださることを知り、
神の御手が支えていてくださることを知るときに、
どんなものによっても奪われることのない平和を持つようになります。
*9月13日 「苦しみの意味」
創世記44章、45章(45章1~8節)
ヨセフは、さらに兄たちの真実を確かめようとします。
銀の杯を、末の弟ベニヤミンの袋に入れ、彼が盗んだとみなし、彼を奴隷にすると宣言します。
かつて兄たちがヨセフを奴隷として見捨てたように、再び弟を奴隷として見捨てなければならない場面を作り出したわけです。
しかし今、兄たちは弟を見捨てません。
自分が身代わりになると言います。
弟の苦しみを喜んで引き受けたい、というのです。
ヨセフは、兄たちの心を知って涙を流します。
ヨセフの苦しみの意味も変わりました。
ヨセフの苦しみも、身代わりの苦しみ、愛する者を生かすための苦しみになりました。
*9月20日 「神と共に歩き続ける人生」
創世記46章、47章(46章1~7節)
イスラエルの民は、もともとは遊牧民でした。
一つのところに定住して町を作るのではなく、家畜と共に移動し続けます。
いつも仮住まいをし、旅をし続ける生活です。
エジプトのヨセフが招いてくれて、一家を上げてエジプトに移住することを決めたものの、ヤコブは定住生活に入っていくことをためらったようです。
この後、「出エジプト記」を読むと、エジプトで数百年過ごしたイスラエルの民が、エジプトを脱出していきます。
そして40年にわたって、荒れ野をさまよい続けることになります。
神が約束してくださった地にすぐに入っていけなかったのは、
彼らの不服従のゆえではありますけれども、
しかし旅をし続けるのは、彼らの本来の姿に立ち返ることでもありました。
わたしたちは新しいイスラエル、真の神の民です。
わたしたちは、この世に根を生やしてしまわず、地上では気流者として仮住まいをしながら、旅を続けます。
神の国を目指して、神と共に歩き続けます。
何ものにも縛られることのない、自由で軽やかな人生です。
*9月27日 「祝福を残す人生」
創世記47章27節~50章14節(48章8~20節)
監獄で人の夢を解き明かしたことがきっかけとなり、
ヨセフはエジプトの王ファラオの夢を解き明かすことになりました。
しかしそれは容易ならぬ夢でした。
ファラオ個人の将来ではなく、エジプトの国全体、さらには世界全体の将来を予告する夢だったからです。
すなわち、これから七年間の飢饉が続くので、手をこまねいていれば、国が滅びることになるというのです。
神が夢を見せて、将来を予告してくださったのは、命を望んでいてくださるからです。
迫りくる飢饉と戦うようにと求めておられるからです。
ヨセフが立てたのは、まだ豊作が続いているうちに、徹底的に食糧を備蓄しておくという計画経済でした。
そしてヨセフ自身が責任者となって、命を救うための計画を進めていくことになりました。
わたしたち一人一人の人生に対して、神が備えておられる計画があります。
神が託していてくださる使命があります。
自分がしていることの意味を、わたしたちは十分に知ることはできないでしょう。
ヤコブが人生の終わりを迎えます。
これまで何度か「ヨセフ物語」という言い方をしました。
ヨセフは兄たちに奴隷として売り飛ばされ、エジプトで苦しい日々を過ごし、
しかしファラオの夢を解いたことからエジプトの宰相にまで登りつめ、
食糧を備蓄する国家的大事業を取り仕切ることになりました。
そして、飢饉で苦しみ食糧を買いに来た兄たちと再会し、和解し、兄たちや父を救うことになったのでした。
ヨセフがいつでも中心にいて活躍していますから、「ヨセフ物語」と呼びたくなります。
しかし、創世記をもっと広い目で見渡せば、この物語は、ヤコブの物語の一部であることがわかります。
ヤコブは、双子の兄に与えられるはずであった神の祝福を奪い、兄との間に深刻な葛藤を抱えながら過ごしました。
自分自身が兄弟関係に苦しんだのに、自分が親になると、ヨセフばかりを偏愛して、子どもたちの兄弟関係に問題を引き起こしました。
そのヤコブが死を迎える。ヤコブ物語の締めくくりです。
ヤコブは、自分の葬りについて遺言を残します(47章27~30節)。
ヨセフの息子たちを祝福します(48章)。
自分の12人の息子たちを祝福します(49章)。
そして死を迎え、埋葬が行われます(50章1~14節)。
ヤコブの最後の言葉は祝福の言葉でした。
かつては、策略を巡らし、父や兄をだまして祝福を奪い取り、自分のものにしようとしました。
しかし、神の祝福は、神のものであり、もっと大きなものでした。
年老いたヤコブは、子どもたち、孫たちに祝福の言葉を残します。
恵もうとする神のご意志と、恵むことがおできになる神の力とに、家族の一人一人をゆだねます。
神は祝福してくださるお方です。
わたしたちの服従は、神の祝福への服従です。