2020年12月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*12月6日 「ほんとうの裁き手を待ち望む」

コリントの信徒への手紙一、4章1~5節


教会の暦ではキリスト降誕祭の前の4週間を「待降節」と呼んで、降誕祭に備える日々を過ごします。

今年はすでに11月29日から待降節が始まっています。

多くの教会では、ろうそくを4本(ないし5本)立てることのできるアドヴェントクランツを据えて、

日曜日が来るごとに1本ずつ、灯すろうそくを増やしていきます。


今年は新型コロナウィルスの感染防止のために、座席の間隔を空けている関係で、

残念ながらクリスマスツリーやアドヴェントクランツを置くことができません。

アドヴェントクランツがあれば、2本目のろうそくに火が灯るところです。

今年は、キリストの使徒たちが書いた手紙を読みながら待降節を過ごしています。

11月29日にローマの信徒への手紙を読んだのに続いて、今日はコリントの信徒への手紙一です。


「主が来られるまでは」という言葉が出てきます。

主イエスの到来を待っている者のための言葉です。


主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。

なぜなら、主イエスこそがほんとうの裁き手でいてくださり、

生きている者と死んだ者とを裁くために来られるのだからです。

その時、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、

めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないのです(Ⅱコリント5:10)。


しかし、恐れる必要はありません。

裁くために来られる主イエスは、わたしたちのために、わたしたちの罪を引き受け、

わたしたちの代わりにすでに裁かれてくださったお方だからです。

*12月13日 「主は近い!」

フィリピの信徒への手紙4章4~7節


3本目のろうそくに火が灯りました。

今日の聖書の言葉の中で、こう言われています。

「主はすぐ近くにおられます。」

この言葉をもとの言葉で読むと、「主は近い」と書いてあります。

「近い」とはどういうことなのでしょうか。


わたしたちが礼拝の中で用いている『聖書 新共同訳』は、いる場所が近い、空間的に近いという意味に理解しているようです。

だから、「主はすぐ近くにおられます」と訳しました。

主はすぐそばにおられる。一緒にいてくださる。


この「近い」を、空間的な近さではなく、時間的な近さとして理解する人もいます。

主はすぐに来られる。すぐ近くにまで来ておられる。間もなく来てくださる。

「すぐそばにおられる」のであれば、もうすでに到来しておられるということです。

「間もなく来られる」のであれば、まだ到来してはおられないということです。

でも、どうやらこの二つの理解は、どちらも正しいようです。

主は近い。


わたしたちは、すでに共にいてくださるお方が、来てくださるのを待っています。

不思議なことです。

このお方が共にいてくださることによっても、このお方を待つことによっても、喜びがあふれます。


「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

*12月20日 「神の愛が現れた」 ※降誕祭礼拝

テトスの手紙3章4~7節


クリスマスの夜、救い主イエス・キリストがお生まれになりました。

わたしたちは、主イエスの誕生を待っているのではありません。

「待つ」というのであれば、主イエスが再び来てくださるのを待っています。

花婿が迎えに来るのを心待ちにする花嫁のようにして待っています。


クリスマスの夜、主イエスはすでに来てくださいました。

神がわたしたちに近づき、ご自分がどなたであるのかを現してくださいました。

そのことを、今日の聖書の言葉はこう語ります。

「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた。」


クリスマスにあらわになったのは、神に慈しみと愛です。

神がわたしたちをどれほど愛してくださるかです。

わたしたちをどこまでも捜し求めるほどに愛し、

わたしたちのためにどこまでも小さくなってしまうほどに愛し、

わたしたちのために命を捨ててしまうほどに愛し、

実にご自分の命よりもわたしたちの命を大切にするほどに愛していてくださいます。


クリスマスは、愛の出来事です。

神の愛の前で、わたしたちはただひたすらに神をほめたたえます。

*12月24日(木) 「光の到来」 ※クリスマス夕べの礼拝 説教者:矢田洋子牧師(東京女子大学)

イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書2章8~14節


クリスマスの夜、心を静かにして礼拝を献げます。

今年は礼拝式をごくシンプルにして、聖書の言葉にひたすらに心を集める礼拝を献げます。

午後6時30分から始まります。


クリスマスは夜の出来事です。

冷たく暗い夜です。

羊飼いたちは、冷たく暗い夜の中に打ち捨てられていました。

眠ることも許されず、身を寄せ合うようにして闇の中にうずくまり、羊の群れの番をしていました。

その羊飼いたちを、神の栄光がめぐり照らしました。


クリスマスは光の出来事です。光の到来です。

この光は、あなたのもとにも到来しています。

*12月27日 「神の国の住民登録」

ルカによる福音書2章1~7節


24日に引き続いて、再びルカによる福音書が語るクリスマスの出来事に耳を傾けます。

主イエスがお生まれになったのは、ローマ帝国の全領土で住民登録が行われているさなかのことでした。

市民として登録されることは誇らしいことであったでしょうか。

登録さえできない人々は、何の権利もなく、保護もなく、身を潜めるようにして生きていかなければならなかったことでしょう。


それから2000年ほどが過ぎました。

「国」の存在はますます重くなり、くっきりとした国境線が引かれています。

そして、この世界で、自分の国を失った難民たちがどれほど多くいることでしょう。


コロナ禍によって難民たちへの支援は滞りがちになり、数えきれない難民たちが苦しんでいます。

考えてみれば、神の民もしばしば難民でした。

エジプトを脱出して、荒れ野を放浪する難民でしたし、あるいは外国に支配されて、虐待や搾取にあえぐ難民でした。


主イエスご自身も難民であるかのようです。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった!」

主イエスがお生まれになり、家畜の餌箱に寝かされているその家畜小屋に駆けつけてきた羊飼いたちも、

おそらく住民登録からもれた、市民権のない人たちだったでしょう。


けれども、主イエスのもとで、新しい家族が生まれています。

新しい国が生まれています。神の国、天の国です。

この世の国とは違う、まったく新しい、喜びの国です。

ここに、すべての人が招かれています。

あなたもこの国に住民登録するようにと招かれています。