2022年0月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*3月6日「大胆に神の前に」

ヘブライ人への手紙4章14~16節


聖書はどこを開いても、主イエス・キリストのことをひたすら語ります。

主イエスはわたしたちのために十字架にかかり、死んでくださいました。

それでは、主イエスの死にはどのような意味があるのでしょうか。

主イエスが死なれたことと、わたしたちとの間には、どのような関係があるのでしょうか。

聖書はそのことについて、さまざまなことを語っています。


ヘブライ人への手紙が語るのは、それは「大祭司」としての働きであったということです。

これは、聖書の他の箇所には語られていないこと、ヘブライ人への手紙でだけ聞くことができることです。

第4章14節から、いよいよその話が始まります。


大祭司は、神と神の民の間に立って、民のために執り成しをし、犠牲をささげる務めを負っています。

今日の箇所では、主イエスが「偉大な大祭司」として、わたしたちと同じになり、わたしたちの側に立って、わたしたちが神に近づけるように、仲立ちになってくださった、と語っています。


今日の箇所でとても大事な言葉が「同情する」という言葉です。

聖書が書かれた元のギリシャ語では「スュンパテオー」という単語です。

英語の「シンパシー」の元になった語ですから、「同情する」と訳しても間違いではありません。

しかし、「スュン」「共に」を意味する接頭辞であり、「パテオー」「苦しむ」という意味の動詞ですから、「スュンパテオー」は「共に苦しむ」という意味になります。


「同情」というと、自分は苦しんではいないけれども、苦しんでいる人を見て、かわいそうに思う、という意味だと思うかもしれませんが、ここではそういう意味ではないのです。

主イエスは、わたしたちと共に苦しんでくださるお方です。

共に苦しむことを通して、大祭司の務めを果たしてくださいました。

*3月13日「激しい叫びと涙をもって」

ヘブライ人への手紙5章1~10節


主イエスは大祭司です。

わたしたちと共に苦しんでくださる大祭司です。

大祭司として「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」てくださいました。

わたしたちを救うためには、このように苦しみ、このようにとりなすことが必要でした。

わたしたちはこのお方の祈りによってとりなされ、このお方の涙によって覚えられ、このお方の従順によって憐みを受けています。


主イエスこそが、そして主イエスだけが「永遠の救いの源」です。

わたしたちは、主イエスが勝ち取ってくださった救いを、ただお受けするだけです。

*3月20日「成熟を目指して」

ヘブライ人への手紙5章11節~6章12節


信仰者として歩み始めると、信仰者としてさらに成長していきたいと願うようになります。

今回の聖書の言葉は、信仰の成長の話です。


信仰においても「幼子」「一人前の大人」がいる。

「乳」しか飲めない人と、「固い食物」を食べられる人がいると語ります。


信仰の成長は、修行のようなものによるのではなく、聞くことによります。

聞くことにおいて「鈍い」と、成長することができないし、それどころか堕落してしまうこともあり得ます。

信仰は、神との生きた関係ですから、神の語りかけを聞くことをやめてしまうと、神に立ち帰る道がなくなってしまうのです。

だから聞き続けることが大切です。

そして聞くことは難しいことではありません。

神はいつでも、あきらめてしまうことなく、語り続けていてくださるからです。

*3月27日「命の錨」

ヘブライ人への手紙6章13~20節


わたしたちの命をしっかりつなぎとめてくれる(いかり)があります。

命の錨、魂の錨です。


「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです」(19節)。


ヘブライ人への手紙を受け取った人々は、厳しい迫害に遭っていました。

殉教する人たちもいました。

苦しみにさらされて、死の危険を味わっている人たちに語りかけています。


わたしたちの命には、切れることのない鎖が結ばれていて、その先には錨がある。

そして錨は、しっかり深く打ち込まれているから、動かない。頼りになる。


わたしたちは人生の嵐に遭い、命が揺さぶられます。舟がひっくり返りそうになります。

しかし、錨は動きません。

わたしたちの命の錨は、もちろん海底に打ち込まれているのではない。


「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」(19節)。


つまり、神ご自身がおられる所にです。

わたしたちの命の錨は、神ご自身に打ち込まれています。

神ご自身がわたしたちの希望です。動くことのない、たしかな希望です。