2019年12月の礼拝のメッセージ

★わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

讃美歌は、第一週は、讃美歌Ⅰ。第二週以降は讃美歌21を使用。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*12月1日

マタイによる福音書1章1~17節

説教「今、新しいことが始まる」

教会の暦ではキリスト降誕祭の前の4週間を「待降節」と呼んで、

降誕祭に備える日々を過ごします。

今日から待降節が始まります。

「待降節」は英語では「アドヴェント(到来)」といいます。

神の御子がわたしたちのもとに到来してくださったことを覚える日々だからです。

神の御子イエス・キリストは、かつてクリスマスの夜に人となり、到来されました。

それだけではありません。

キリストはわたしたちの救いを完成するために、再び到来してくださいます。

わたしたちはやがて再び来てくださるお方を待ち望んでいます。

待降節を迎えて、新約聖書の最初のページを開きます。

そこにはたくさんのカタカナの名前が出てきます。

「イエス・キリストの系図」と書いてあります。

でもよく読むと、これはイエス・キリストの系図ではありません。

旧約聖書に登場するアブラハムから始まって、

主イエスの母となったマリアの夫ヨセフにまで至る系図です。

主イエスがマリアからお生まれになったのは、

マリアがヨセフと結婚する前のことですから、

この系図はヨセフの系図であって、主イエスにはつながっていないのです。

この系図は、旧約聖書全体の要約です。

この系図は、人間の歴史の総括です。

罪を重ね、神から離れ、神から遠ざかり続け、

どこまでも低く降り続けてしまう歴史です。

その歴史のすべてを主イエスは引き受けてくださいました。

「イエス・キリストの系図」と訳されていますが、「系図」と訳された言葉は、

「誕生」「起源」「命」そして「創世記」などを意味する言葉です。

主イエスのお働きの起源です。

主イエスによって引き起こされる新しい創世記です。

主イエスによって、

わたしたちの心も体も根こそぎに新しく造り変えられてしまいます。

今、新しいことが始まります。

わたしたちもそこに巻き込まれています。

*12月8日

ルカによる福音書1章39~55節

説教「神の将来がもうここに」

主イエスの母となったマリアは、突然天使の訪れを受けました。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

これが天使の御告げでした。「受胎告知」と言われます。

マリアはいったいどのような思いでこの御告げを受け止めたのでしょうか。

多くの画家が受胎告知の場面を描きました。

マリアの姿勢に、また表情に、マリアの信仰が表現されています。

それはまた画家自身の信仰でもありましょう。

受胎告知を受けた後、マリアは親戚のエリサベトを訪ねます。

エリサベトもまた天使の訪れを受け、出産を予告されていました。

神に語りかけられた二人の女性が出会います。

ここに小さな教会が生まれています。

小さな教会は歌を歌い出します。

神をたたえる賛美の歌です。

神がしてくださったことのゆえにではなく、

神がこれからしてくださることを信じて歌います。

神の言葉がわたしたちの中に入ってくるときに、

わたしたちはもうすでに、神の御心の中にいます。

もうすでに、神の将来の中にいます。

*12月15日

マタイによる福音書1章18~25節

説教「神は我々と共におられる」

マリアが天使の訪れを受け、受胎を告知されたように、

マリアの婚約者であるヨセフにも天使が現れます。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」

不可解な妊娠をしたマリアが無事に出産することも、

幼子がヨセフの子どもとして受け入れられることも、

名が付けられることも、

ヨセフがそのすべてを受け入れることなしにはあり得ないことでした。

主イエスの母となることも、彼女の夫となることも、

神の特別な選びによることであり、神からの贈り物であり、

神が信頼してゆだねてくださったことでした。

わたしたちが主イエスを信じ、主イエスのものとなり、

主イエスの弟子として生きることもまた、

神の特別な選びによることであり、

神からの贈り物であり、

そして、光栄ある重い務めとして神がゆだねてくださることです。

ヨセフには主イエスのもう一つの名が知らされます。

それは「インマヌエル」というのです。

旧約聖書が書かれたヘブライ語で「イム」「共に」

「イム」に一人称複数の語尾形が付いた「インマヌー」「我々と共に」

「エル」「神」を意味しています。

インマヌエル。神は我々と共に。

主イエスはわたしたちと共にいてくださる神です。

マリアの胎内に宿られたように、主イエスはわたしたちの内に住んでくださる神です。

*12月22日 降誕祭礼拝

マタイによる福音書2章1~11節

説教「与え尽くす喜び」

キリスト降誕祭の礼拝をささげます。

「クリスマスChristmas」という言葉は、

「キリストChrist」と「礼拝mas」からできています。

クリスマスとは、わたしたちのところに到来してくださったキリストを礼拝する日なのです。

教会の暦では12月25日(24日の夜から)が降誕祭の当日ですが、

わたしたちの教会では25日の直前の日曜日である22日に降誕祭の礼拝を祝います。

ご一緒に、神がわたしたちを救うために人となられた神の秘儀を祝いましょう。

聖書の「福音書」は主イエスのご生涯を語ります。

福音書に出てくるクリスマスの場面は、まさしく礼拝の場面です。

ルカによる福音書では、羊飼いたちが主イエスを探し当てて礼拝しました。

マタイによる福音書では、

外国からやってきた占星術の学者たちがついに幼子を見つけ、

ひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。

世界で初めのクリスマスプレゼントです。

「宝の箱」と言われているように、

黄金、乳香、没薬はたいへん高価なものだったでしょう。

そればかりでなく、この学者たちにとっては、

自分たちが占星術、錬金術、医術などをおこなって働くために欠かすことのできない商売道具でもあったようです。

それをささげてしまうということは、

これまでの生き方とは決別し、新しい生き方を始めることを意味していました。

自分の人生をささげてしまって、主イエスのものとして生き始めたのです。

そこに、ほんとうの幸いがあり、喜びがあります。

*12月24日 クリスマス 夕べの礼拝

説教「神さまからのプレゼント」

クリスマスの夜、心を静かにしてクリスマスの賛美歌を歌い、聖書の言葉に聞き、

クリスマスがわたしたちにとってどういう意味があるのかを解き明かす説教に耳を傾けましょう。

成瀬が丘教会のクリスマス夕べの礼拝は、午後6時30分から始まります。

東京女子大学の矢田洋子牧師が神の御言葉を取り次いでくださいます。

*12月29日

ルカによる福音書17章20~37節

説教「神の国が来ている」

キリスト教では「天国」「地獄」を信じていると考えられているかもしれませんが、

そのどちらも聖書の語り方はずいぶん違っています。

聖書には「天の国」という言い方なら出てきますが、

ここでの「天」「神」の言い換えであって、実際「神の国」という方が普通です。

しかもその神の国について、主イエスはこう言われました。

「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

別の箇所で主イエスは「神の国は近づいた」とも言われました。

「近づく」というと、また来てはいないようですが、

しかしこの動詞の時制は完了形です。

もうすでに近づいてきてしまった。押し迫ってきている、というのです。

今日の箇所ではもう一歩進んで「あなたがたの間にある」と言われたのでした。

死んだ後の話をしているのではありません。

生きていても死んでいても、神の恵みが支配し、

神の御心が貫かれている国があります。

主イエスが到来してくださることによって、

神の国はわたしたちの世界に突入してきました。

なぜなら、神の恵みに逆らい、神の御心に背くものを主イエスが引き受け、

滅ぼしてくださったからです。

主イエスがおられるところに神の国は来ています。

十字架が立っているところで神の国は始まっています。

そしてこの国は、わたしたちが死んでもそこに生きることになる永遠の国です。