202年01月の礼拝のメッセージ

わたしたちの教会では、

聖書は、「新共同訳聖書」

現在、讃美歌は第一週も第二週以降も讃美歌21を使用します。

聖書・讃美歌は、教会で用意しております。

*1月2日「羊として、羊飼いとして」

ペトロの手紙一 5章1~5節


主の年2022年を迎えました。

コロナ禍に悩む日々がすでに長く続き、3年目となります。

なかなか先が見えてきません。

しかし、主イエスご自身がわたしたちの道でいてくださり、主の御言葉がわたしたちの道を照らしてくださいます。

御言葉に聞きつつ、新しい年の歩みを一歩ずつ続けていきましょう。


「ペトロの手紙一」を、章を追い、節を追いながら読み進めてきました。

いよいよ最後の章になります。

手紙の書き手であるペトロが、改まった口調で勧めの言葉を語ります。

ペトロは、主イエスの十二人の弟子たちの中で、いつも最初に名前が挙げられます。

しかしまた、何度もみじめに失敗した人でもあります。

何よりも、主イエスを否定し、主イエスとの断絶を宣言してしまいました。

だから、この手紙の冒頭で差出人として自分の名前を書くところで、「イエス・キリストの使徒」と名乗り、また、本名の「シモン」ではなく、主イエスからいただいた「ペトロ(岩)」という呼び名を用いていることは、驚くべきことでした。

手紙の最後に来て、ペトロは改めて自分が何者であるかを語ります。

ここでは、「長老」と言い、さらに「キリストの受難の証人」と言いました。

ペトロは主イエスが逮捕された時に逃げ出してしまい、主イエスが裁判を受けている時には主イエスを否定し、主イエスが十字架刑に処せられた時にはそこにいませんでした。

ですから、主イエスのお苦しみと死を直接目撃してはいません。

その意味では、「証人」ではありません。

けれども、それほど弱く、それほど挫折を重ね、それほど価値のない者のために、主イエスが苦しんでくださったことの証人です。

弟子とされていながら、もっとも大切な十字架の場面に居合わせる事さえできなかった自分。

そんな者を救うために、主イエスが死んでくださったことの証人です。

ペトロは、主イエスの恵み深さを伝えることで、信仰者たちを養い続けました。

*1月9日神の力強い御手の下で

ペトロの手紙一 5章6~14節


先週の箇所で、ペトロは「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と語りました。

これは、ペトロ自身が主イエスから「わたしの羊を飼いなさい」と言われた言葉が響いています。

今日の箇所も同じです。


思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです
(7節)


ペトロは何度も、さまざまなことに思い煩ったことと思います。

そのたびに、主イエスがお語りくださった言葉を思い起こしたことでしょう。

主イエスは「思い悩むな」と言い、「あなたがたの天の父は、あなたがたが思い悩んでいるものについて、それらが必要なことをご存じでいてくださる」とお語りになりました。

ペトロは何度も思い煩い、何度も主イエスの言葉の確かさを味わったことでしょう。

今ペトロは、主イエスから受け取った言葉を、そのまま次の人に手渡すようにして語ります。


「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」


「任せる」というのは、上に投げかけてしまう、という意味の言葉です。

わたしたちの心を重くするあらゆることを、神に投げかけてしまうことができます。

神が、わたしたち自身よりももっと深く、わたしたちのために心を騒がせていてくださいます。

*1月16日「神は御子によって語る」

ヘブライ人への手紙1章1~4節


「ペトロの手紙一」を読み終えて、新しく「ヘブライ人への手紙」を読み始めます。

「手紙」というタイトルがついていますが、最後の部分以外は、手紙らしいところはありません。

むしろ、説教のようです。

教会で回覧された説教パンフレットだったのではないか、と想像する人もいます。


聖書はどこを開いても、一人のお方、主イエス・キリストを伝え、キリストの福音を告げ知らせます。

ヘブライ人への手紙も同じです。

しかし、聖書の一つ一つの文書には、それぞれに異なる声があり、色彩があります。

ヘブライ人への手紙はとりわけユニークな言葉、ユニークな語り方でキリストの福音を語っています。

この書物でしか聞くことができない福音の言葉を聞いていきましょう。


語り出しからしてユニークです。

神は終わりの時代にあって、「御子」によってわたしたちに決定的な仕方でお語りになったのだ、と言って、こう続けます。


御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです(3節)。


別の翻訳では、同じ箇所がこう訳されています。


御子は神の栄光の反射、神の実質の彫像である(田川建三訳)。


「御子」とはどなたなのかについて、福音書とも、使徒パウロの書簡とも異なる言葉、異なる思想で語ります。

この書物にじっくり耳を傾けていきましょう。

*1月23日「神の御子を語る言葉」

ヘブライ人への手紙1章4~14節


ヘブライ人への手紙は、手紙というよりも説教なのではないかと考えられています。

使徒言行録には、ペトロやパウロの説教が出てきますが、そこに記されているのは、語られた言葉そのままではなく、内容の要約であるようです。

それに対して、ヘブライ人への手紙は十分な分量を使って、ていねいに語られていますから、当時語られた説教の言葉そのものであるのかもしれません。

そうだとすると、もっとも古い説教の記録だということになります。


ヘブライ人への手紙は説教ではないかと思わせる理由の一つは、いつでも聖書の言葉に基づいて語っているからです。

わたしたちの教会でも、まず聖書の言葉が朗読され、聖書の言葉に基づいて説教が語られるのと同じです。

「聖書」と言っても、当時は、新約聖書はまだ書かれていないか、書かれていても聖書としてまとめられてはいませんから、旧約聖書のことです。


この手紙は、主イエスのことをひたすらに語りますが、主イエスを語るにあたって、当然のことのように、旧約聖書の言葉を引きます。

わたしたちが使っている「聖書 新共同訳」には巻末に付録があり、その47頁以下に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」が掲載されています。

そこを見ると、今日の聖書箇所だけでも、旧約聖書の言葉が7か所も引用されていることがわかります。

その多くは詩編、それも「王の詩編」と呼ばれる詩編です。


これらの詩編は、直接にはダビデ王やその他のイスラセルの王たちについて歌っています。

しかし本当は、主イエスのことを歌っているのです。

そのことを知ると、詩編が、そしてさらには旧約聖書全体が、それまでとはまったく違う姿を現してきます。

旧約聖書はキリスト以前の時代を語る書物なのではなくて、キリストを待望し、キリストについて預言している書物なのです。

*1月30日「これほど大きな救い」

ヘブライ人への手紙2章1~4節


ヨハネによる福音書はその冒頭で、主イエスを「言」と呼びました。

永遠の神の御言葉が肉となって、わたしたちの間に宿られたのだというのです。

ヘブライ人への手紙もその冒頭で、神は御子によって決定的な仕方で語られたのだと言います。

主イエスこそが神の言葉です。

主イエスがお語りになった言葉、主イエスの教えだけではありません。

主イエスがなさったこと、十字架上での死、復活、主イエスの存在のすべてが神の言葉です。

わたしたちは、「神の御心がわからない」「神の声が聞こえない」と思うことがあります。


しかし、神の言葉ははっきりしています。

神の言葉がわからなくなったならば、主イエスの十字架を見たらいいのです。

主イエスのお苦しみと死を見たらいいのです。

主イエスの十字架こそが、わたしたちへの神の言葉です。

「わたしはあなたを最後まで、極みまで愛する」という言葉です。

「わたしはあなたに、わたし自身をすべて与えつくす」という言葉です。

「あなたの罪は全部わたしが引き受け、罪の贖いは成し遂げられた」という言葉です。


神の言葉は応答を求めています。

神はわたしたちに語りかけてくださっていますから、わたしたちは神にお答えします。

「わたしもあなたを愛します。このわたしをあなたにお献げします」と。