石川啄木
浅草 等光寺 は親友土岐善麿(歌人・国学者)の生家。土岐は啄木の一つ年上、読売新聞に勤務しているときの知り合いです。この寺で若くして亡くなった啄木の葬儀が行われました。句碑は境内に。 2017/5/19
浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心 歌集『一握の砂』より
石川啄木終焉の地及び顕彰室(茗荷谷駅8分)
立派な歌碑が建っていました。H27にできたました。
啄木の人生は文京区小石川(旧久堅町)の地においてわずか26歳で終わります。(M45)プレートの埋まった白いマンションは元々あった終焉の地のプレートです。
呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな
26歳、その歳で迎えた病魔との戦い。無力で無念だったでしょう。その生き様を残した文学者は多くいますが、子供のようにはしゃぐ姿の想像できる歌もあれば、まるで自分の子が死にゆくような歌も残しているのですね。せつない。さびしい。
与謝野晶子
今回はずっと行きたかった与謝野晶子・寛の旧宅跡の公園に行ってきました。荻窪駅から南にしばらく歩きました。閑静で道幅の狭い、昔ながらの住宅街の一角に住んでいたのです。
荻窪川南共栄会商店街では「与謝野晶子・鉄幹 ゆかりの地 散策の路」ののぼりを町中に掲げて迎えてくれます。
与謝野晶子と言えば、生々しい女性の姿を歌った歌集『みだれ髪』次の歌が高校教科書に載っています。センセーショナルな歌でした。
その子二十櫛になるがるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
公園の門は旧宅の入り口です。道沿いに2人の歌碑があります。
2017/3/10
また日露戦争で旅順に出征していた弟への思いを詠った『君死にたまふことなかれ』を「明星」に発表。戦争に対して和歌で反戦を主張した女性として有名ですが、実は戦争反対より弟への思いの歌だと言われています。
大正12年(1923)の関東大震災での体験から郊外へ引っ越し、この地には昭和2年(1927)に来ました。当時の荻窪は田園風景の広がる武蔵野の地でした。
この地から寛と晶子は多くの旅に出ます。日本全国どこに行っても2人の歌碑に出会えます。みなさんと行った鎌倉でもありましたよ。さて、どこでしょう?
ヒント かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな
答えはこれです。
大仏さまの後ろにありました。
写真は2016/10/04 鎌倉の校外学習の時のものです。
斎藤茂吉
教科書には次のうたが載っています。
みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞただにいそげる
死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
いずれも母を詠んだ、哀しく心にしみてきます。
あかあかと一本の道通りたり
霊剋(たまきは)るわが命なりけり
歌集「あらたま」より
表参道駅下車。行き交うたくさんの人々とともにアパレルの近未来的な建物を見ながら、裏に入ると青山の静かな住宅地があります。あるマンションの入り口、垣根の中にあります。2017/12/10
茂吉はM15年 山形で生まれた。14歳で上京して親戚の医師、斎藤紀一氏の養子になります。開成中学、一高(開成高校と東京大学医学部)を出て精神科医になるのですから、超エリートですね。その上有名な歌人。すごすぎます。一高時代に正岡子規の『竹の里歌』に感銘を受け、うたを詠み始めます。T2年に第1歌集『赤光』を刊行。歌人の地位を確立します。このころのうたです。郊外の田舎の風景を思い描いてください。秋の夕日に一本道が赤く照らされ、私たちはこの一本の道を歩き、生きていく。師を失った後の「アララギ」を背負う決意とも言われています。
T10年よりウィーン大学とミュンヘン大学に留学し、T13年に帰国。直前に斎藤家の青山脳病院が全焼してしまいます。茂吉は復興に力を尽くし、S2年に院長となります。この青山の地に病院がありました。洋風建築の病院も、野原も残ってはいません。建物はS20年の空襲で焼失しました。
小田急線の世田谷代田駅を降りて、環状七号線を渡るとすぐに代田八幡宮があります。このあたりは武蔵野台地の端にあたり、文士町が形成された頃は武蔵野の面影の残る町でした。2018/5/30
附近の住宅地には茂吉の旧居跡があります。交通の便の良さと横光利一の影響で集まったのが始めです。また環状七号線を戻り渡ると北沢川緑道沿いにせせらぎがあります。しばらく歩くと茂吉の歌碑があります。もとは川でしたが、暗渠になり、いまはご覧のような流れです。茂吉は戦後のをこの近くで過ごしたのだ
青山脳病院院長の婿となり、跡を継ぎますが、S20年に空襲がひどくなり故郷山形に疎開。S22年この地いた長男茂太の自宅兼診療所に帰京。代田八幡宮は散歩コースでした。ちなみに次男は北杜夫ですよ。S25年に新宿大京町に移るまでの3年間を過ごしました。
代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ
伊藤左千夫
伊藤左千夫牧舎兼住居跡
錦糸町は学校からバスで一本という近さ。住吉にある猿江公園でのボランティアの取材の帰りに見つけました。千葉の生んだ明治の歌人、小説家。小説『野菊の墓』は松田聖子さんや山口百恵さんといった、名だたるアイドルの登竜門的映画の一作でしたね。「民さんは野菊のような人だ」今読んでもせつない恋のお話です。2018/5/20
牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
短歌の世界の革新的な左千夫の力強さと決意が読み取れる(30歳作)、若いエネルギーを感じる歌です。左千夫はここで牛乳搾取の仕事をはじめ(26歳)ました。まさしく牛飼いです。そうです。今ではこんな駅前の一等地ですよ。歌碑の歌は、
よき日には / 庭にゆさぶり / 雨の日は / 家とよもして / 児等が遊ぶも
短歌革新運動を進める正岡子規に共鳴します。その門に入り活動し、子規没後も指導的役割を担い、多くの歌人を育てます。
亀戸駅から歩くこと10分ほど。亀戸天神隣の普門院に行きました。そこは左千夫の墓所があります。これは入口の案内。裏面には「岡子規の門人となりアララギ派の歌人として。そして墓の入口にも案内が。2018/7/16
大正10年(1921年)に斎藤茂吉は左千夫の墓を訪れている。「つゆじも」所収
龜戸の普門院なる御墓べに水青き溝いまだのこれり
鬱蒼とした境内と崩れ落ちそうな墓石。なんだか寂しかったです。写真は墓とその空です。ここには「牛飼〜」の歌碑があるはずなのですが、残念。見つかりませんでした。境内にいた人に聞いてもわからないと言われました。残念。蚊の大群に襲われました。今年の夏は街歩きもきついです。
佐々木信綱
歌人・国文学者で、三重県生まれ。歌人でぁ。佐佐木弘綱の長男です。父の歿後竹柏会を組織する。歌学者・万葉学者としての業績は大きい。
ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲
奈良 薬師寺 2008/12/5