明治42年(1909)6月19日、津軽地方きっての大地主津島家の6男として生まれ、名を修治と命名。父は青森県内でも有力な県議会議員(後に衆議院議員、貴族院多額納税議員)で、太宰が生まれる2年前に現「斜陽館」の家屋を新築した。才気にあふれ、「走れメロス」「津軽」「人間失格」をはじめ数々の名作を残し、昭和23年6月になんと39歳でこの世を去りました。
津軽に来ました。初めてです。津軽は広くて、いつか一周したいです。車で3日、弘前も回ると4日でしょうか。周辺にはJR東日本のCMで有名になった橋、五所川原のねぶたも。津軽の名物ランキング3位「ホタテの貝焼き」と7位「五所川原元祖しじみラーメン」はいただきました。1位の「味噌青森味噌カレー牛乳ラーメン」は食べ損ないました。どんな味でしょうか。
太宰治「思ひ出」の蔵(五所川原)
五所川原のトカトントンスクエアにいきました。ここは叔母きゑの家があった場所で、とても立派な現在の津島歯科医院です。隣にあった蔵は、太宰が訪ねた当時の外観を残していました。「思ひ出」の蔵は平成23年(2011年)の解体までありました。私がみたのは、に使われていた木材を利用し2014年復元されたものです。立佞武多の館のすぐ近くのこの場所で、所狭しと並んだゆかりの品を見ることができます。「昭和19年に発生した五所川原大火のとき、焼け残ったのがこの蔵」だったそうです。水瓶も黒金庫も焼け残りました。太宰の原稿や手紙の写しなども展示していました。今回の親切に中を紹介してくれました。写真はOKです。
6歳だった太宰はきゑ(子どもの頃、お母さんだと思っていた母の妹である叔母)の一家と移住し、約2か月共に暮らしたといわれています。その後も度々きゑ一家を訪問したようです。
斜陽館 太宰治記念館(金木)
これが「斜陽館」やっと来れました。
太宰が育ち、憎み、苛立ち、畏まり何度も見上げた家です。感動で写真が多いですが、すいません。
太宰の父、大地主津島源右衛門の手で明治40年に建設された和洋折衷の大大大豪邸。重要文化財。米蔵まで日本三大美林のヒバを使っているそうです。1階に11室、2階に8室あります。見歩くだけでも大変。合わせて680坪の近代和風建築物の大豪邸でした。太宰の着たマントや初版本、原稿などといった資料を展示しているスペースもあります。
津島家はこの地の経済の中心を担っていた。正面玄関前には「みちのく銀行」「青森銀行」がある。これは津島家が所有していた「金木銀行」「米蔵」から変わったものです。つまり金木の中心です。
戦後に津島家が手放し、昭和25年から旅館「斜陽館」として観光名所に。泊まりたかったです。46年の歴史の後、平成8年3月に旧金木町が買い取りました。
やっと来ました もちろん重要文化財の「斜陽館」
今年は2019年 そう記念の年です
すぐ横の観光物産館の郷土料理「はな」でいただける太宰の好きな若竹入りの太宰ラーメン
左奥(土間)が受付。ここ(前座敷)は奥の部屋(茶の間)、右手の部屋(座敷)、右奥の部屋(仏間)と繋げて63畳。この大広間では父が度々宴会を開いていたそう。
泉水を配した庭園
この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。
『苦悩の年鑑』
太宰が三鷹の住居付近を散歩している様子を写したそうです。
太宰治疎開の家《旧津島家新座敷》 (金木)
大正11年に太宰の兄・文治夫婦の新居として建てられた津島家の離れです。和洋折衷の重厚な建物でした。疎開した太宰治が暮らした家として有名です。1945年に東京と甲府の戦禍から逃れここに逗留します。そしてここで「パンドラの匣」「苦悩の年鑑」「親友交歡」「冬の花火」「トカトントン」など、23を越える作品を執筆したそうです。唯一残る太宰の居宅です。書斎まで残っています。もちろんそこに座って写真を撮りました。
太宰の書斎
れいの戦災をこうむり、自分ひとりなら、またべつだが、五歳と二歳の子供をかかえているので窮し、とうとう津軽の生家にもぐり込んで、親子四人、居候《いそうろう》という身分になった。
たいていの人は、知っているかと思うが、私は生家の人たちと永いこと、具合の悪い間柄になっていた。げびた言い方をすれば、私は二十代のふしだらのために勘当されていたのである。
それが、二度も罹災《りさい》して、行くところが無くなり、ヨロシクタノムと電報を発し、のこのこ生家に乗り込んだ。
そうして間もなく戦いが終り、私は和服の着流しで故郷の野原を、五歳の女児を連れて歩きまわったりなど出来るようになった。
まことに、妙な気持のものであった。私はもう十五年間も故郷から離れていたのだが、故郷はべつだん変っていない。そうしてまた、その故郷の野原を歩きまわっている私も、ただの津軽人である。十五年間も東京で暮していながら、一向に都会人らしく無いのである。首筋太く鈍重な、私はやはり百姓である。いったい東京で、どんな生活をして来たのだろう。ちっとも、あか抜けてやしないじゃないか。私は不思議な気がした。
『十五年間』
太宰ゆかりの通りの名
雲祥寺 (金木)
たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極樂の御繪掛地を見せて説明した。火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を脊負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを卷かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を拔かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
『思ひ出』
幼少時に子守のタケによく連れられて来たこの寺で、江戸時代の「地獄絵」(上記)や「後生車」が描写されました。『思ひ出』
太宰治没後60年、生誕100年を来年にひかえた2008年に太宰治記念碑は建てられました。
卒塔婆の鉄の輪も見ておきたい。
汝を愛し汝を憎む
思い出広場
太宰の高等小学校への通学路です。そこに平成10年に作られたようです。
その小学校はここです。校庭には文学碑があるようで。
芦野公園(金木)太宰治文学碑と像
太宰が少年の頃に遊び、歩いた公園。太宰文学碑があり、ファンや観光客がも多く訪れる日本さくら名所百選の場所です。
園内には、津軽三味線発祥の碑のほか、児童動物園、ふれあい広場やオートキャンプ場等があります。
公園の中を通る津軽鉄道、そして小さな駅「芦野公園駅」駅舎は喫茶店になっていました。もちろん横から入って向こう側に現役の駅があります。
ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になつてゐる。沼が見える。芦の湖といふ名前である。
『津軽』
撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
ヴェルレーヌの詩の一節
津島家の菩提寺 南臺寺
津島家寄贈の鐘楼があり、太宰は小さい頃よくお寺まいりをさせられたそうです。