私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。
だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。謂はば純血種の津軽人である。 (中略)
弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区画をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見せたのが、この弘前城であるという。(中略)
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ。
『津軽』
弘前城
弘前といえば弘前城。残念ながら初の弘前は桜の季節ではありませんでした。石垣の工事で曳屋(ひきや)が行われ、弘前城は移動しています。2021年に元の位置に戻り、石垣修理全体の工事完了は2023年度予定だそうです。
修理中の石垣、曳家後の弘前城天守、天守のあったところ
最勝院の五重塔
最勝寺
津軽の寺社への大きな影響力持った古刹 津軽真言宗五山の筆頭
東北一の美塔といわれています 重要文化財
長勝寺の三間一戸の三門で国指定重要文化財
津軽家最初の菩提寺江戸時代初期の代表的な建造物「三門」
太宰治まなびの家
太宰治が官立弘前高校へ通うため下宿していた家です。昭和3年の入学から卒業まで親戚の藤田豊三郎方に3年間下宿し、学生生活を送った場所です。
普通は寮に入るのですが、陸軍の統括していたこの地の気性の強さを恐れて、体力のない太宰は親戚筋の家に預けられたそうです。
二階は手前友人、奥( 2.4.5.6枚目)は太宰の部屋だそうです。小ぶりの机や茶箪笥も当時のものです。
藤田家の外観
太宰の部屋
有名なこの家の写真は一階のこの部屋で
数学が苦手だったみたいです。 なぜか数式の落書きが。苦しみの跡か。
机の置いてある小さな空間の背には江戸役者絵、前の障子の向こうには小さな棚があり、江戸小物を入れていたそうです。
ここによく座っていたそう
私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。
『津軽』
私には、また別の専門科目があるのだ。
世人は假りにその科目を愛と呼んでゐる。
人の心と人の心の觸れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した。
『津軽』
やさしくて、
かなしくて、
をかしくて、
他に何がいるのでせう。