16椹木野衣「芸術と感性」
【補充問題】解答
補問一 芸術作品を観ることで、ふだんは仕舞ってある自分の心の中身を知ること。(34字)
補問二 観る側の心の自由
補問三 エ・キ(順不同)
【補充問題】解説
補問一
評論文の起承転結の四段構成、あるいは序論・本論・結論の三段構成では、冒頭の部分と最後の部分が呼応していることがよくある。冒頭で問題点を提示し、最後に結論が来ることが多いからだ。だから、冒頭の傍線部や空欄の問いの答えは最後の部分にあることがしばしばあるので注意が必要だ。この問題の場合も、1段落で提示された「自分自身をいろいろな条件にぶっつける」について、最後から二番目の22段落の結論部で「冒頭に掲げた岡本太郎の言葉にある『いろいろな条件にぶっつける』というのは、まさにこのことだ」と再度触れられている。つまり、この部分の「このこと」がさす「誰でも、自分の心の中身を……開けてしまう」の部分の内容をまとめればよいわけだ。
補問二
設問に「感性のおおもとになるもの」とあるので、〝感性の本質〟について述べられている部分を探せばよいと見当がつくだろう。「感性」をキーワードに探してみると、17段落に「つまり、芸術における感性とは、あくまで観る側の心の自由にある」と、端的に述べられた一文がある。「つまり」が、それまでの内容をまとめて言い換えるはたらきをする接続語であることからも、この部分が有力候補と言える。ここから指定字数の八字で適当な語句を探すと「観る側の心の自由」が見つかる。
補問三
アは感性を重視する姿勢が、「教育への反発から生まれた」とある点が本文にはなく誤り。イは、「描写の技法」とあるが、筆者は5段落で「芸術に技は必ずしも必要ではない」と述べているので誤り。ウは「芸術作品を観る目」が「長年の社会的な慣習によって養われる」が誤り。オは、「美術に関する知識や技術は鑑賞の障害になるだけ」とあるが、13段落に「知識や技術は鑑賞の助けにはなっても」とあるので誤り。カは、感性がネガティヴな感情呼び起こすを「もとになる」という点が誤り。16段落では、ネガティブな感情も芸術的感性を引き出すきっかけになると言っている。クは、20段落で「芸術にはまっさらな気持ちで接するべき」とする考えを否定しているので誤り。正答は美術教育の困難について言っているエと、感性が事後的なものであることを説明しているキの二つだ。
解答解説用pdf
17椹木野衣「芸術と感性」
【補充問題】解答
補問一 脳が創り出した幻覚
補問二 自分の中に知らない能力があるならそれを知りたいと思う気持ち。(30字)
補問三 オ
【補充問題】解答
補問一
3段落で「臨死体験」について説明され、4段落でその内容を受けて、「こういった体験もすべて脳が創り出した幻覚だと考えている」と、筆者の「臨死体験」についての捉え方を述べている。この文脈の流れを捉えられれば正解にたどり着けるだろう。
補問二
「その気持ち」とは、直前の「私はこれまで……思いましてね」と言った男性の気持ちをさすので、その男性の言葉をもとに、その気持ちをまとめればよいわけだ。男性の気持ちが表れているのは、「自分にも、何か知らない能力があるのだとしたら、それを知りたい」の部分なので、ここを「……気持ち。」という形でまとめよう。
補問三
「デカルト劇場は破綻しない」とは、デカルトの心身二元論が破綻しない、ということ。しかし、「だが唯物論の立場を採ると」デカルトの心身二元論が「破綻する」という文脈だ。「ドラマも観客も脳の物質の中にいる」の「ドラマ」とは認識対象、「観客」は認識主体を表しており、それがどちらも「脳の物質の中にいる」いうことは、〝認識対象も認識主体も脳の物質〟ということ。つまり、「心」を「霊魂」ではなく「脳の物質」と捉えているということ。唯物論の立場で考えると、「『「自分を考えている自分」を考えている自分』について考える……というふうに、無限後退」を引き起こす(=「自己参照の矛盾」)とある。つまり、「心」=「非物質的な『霊魂』」という仮定の下では、このような矛盾は起きないということだ。
アは、唯物論の立場を採っているので誤り。イは、「唯物論を克服」するために「心」を「霊魂」(=非物質的なもの)と捉えようとしているわけではないので誤り。ウは、デカルトの心身二元論は、心という認識主体が認識対象を観る、という構図なので、心が「認識対象とはならない」だけでは理由として不十分なので誤り。エは、42行目にある「統合される」ものとは「五感」のそれぞれの情報であって、「心」と「五感」の情報が統合されるわけではないので誤り。オの「自らが自らを見ることによる矛盾」は「自己参照の矛盾」を表しており、その矛盾が「生じない」と述べているので正解。