『万葉集』には、田辺福麻呂(さきまろ)、高橋虫麻呂、大伴家持の三人の歌人によって、菟原乙女の歌が詠まれている。二人の若者に思いを寄せられ、選べず悩み、死を選ぶのです。そんなバカな。でも純粋に人を思い、それに答えようとするこれも純粋な心は、今もあるかもしれません。そんな乙女への追悼、哀悼、伝承の歌である。
菟原処女 の伝説は、『伊勢物語』の行平の話と深く関わっているものです。その伝説に行平と業平は思いをはせて和歌を詠みます。阿保親王の御陵と在原氏ゆかりのこの土地で、時の権力の中枢へ痛快な批判をします。というのは、私の大学時代の卒業論文です。土地の伝説と民俗学的な用語を和歌に読み取るというものでした。その土地を20年ぶりに歩いて見ました。三つの古墳は海岸線に一直線に並んでいます。 2018/12/19
『伊勢物語』(87段)「むかし、男、津の国、菟原の郡、蘆屋の里にしるよしして、いきてすみけり。」
信太壮士の墓 東求女塚
まず初めに男(信太壮士)の墓。4世紀後半の前方後円墳です。ここから女の墓までしばらく歩きます。
菟原乙女の墓 処女塚古墳
菟原処女の墓は全長70メートルの前方後円墳。
万葉歌碑です。左は田辺福麻呂が、処女塚に立ち寄った際の様子とその伝説についての歌(歌碑)です。
意味は、「昔の小竹田の男と血沼の男が求婚した菟原処女の墓だよこれなんだよ」というものです。
古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ
田辺福麻呂
菟原壮士の塚 西求女塚古墳
最後に別の男の墓 珍しい前方後方墳です。兎原壮士のものです。全長98メートル、六甲山麓では最大の前方後円墳。三世紀後半の築造です。
菟原娘子が墓を見る歌
高橋虫麻呂
蘆屋の 菟原(うなひ)乙女の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣をなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓(をとこはか)このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも
反歌
蘆屋の菟原娘子の奥城[墓]を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
蘆の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
蘆屋の処女が墓を過ぐる時に作る歌
田辺福麻呂
いにしへの ますら壮士の 相競ひ 妻どひしけむ 蘆屋の 菟原娘子の 奥城(おくつき)を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと 玉桙(ほこ)の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子らが 奥城ところ 我れさへに 見れば悲しも いにしへ思へば
反歌
いにしへの小竹田壮士の妻どひし菟原娘子の奥つ城ぞこれ
語り継ぐからにもここだ恋しきを直目(ただめ)に見けむいにしへ壮士
処女墓の歌に追ひて同(こた)ふる
大伴家持
いにしへに ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 茅渟壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻どひしける 娘子らが 聞けば悲しき 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛りすら ますらをの 言いたはしみ 父母に 申し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥城を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊小櫛しか刺しけらし 生ひて靡けり
反歌
娘子(をとめ)らが後の標(しるし)と黄楊小櫛生ひ変わり生ひて靡きけらしも
→文芸としては『大和物語』生田川伝説しとて語り継がれる。その後の謡曲「求塚」、森鴎外『生田川』はこの伝説に材を取ったものです。