高校での和泉式部は日記文学で出てきますよね。「とかいむささ」の「い」ですよ。紫式部と同時代を生き、特徴は恋多き女。一条天皇の中宮、彰子に使えた一人です。
あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 『百人一首』
976年〜1036頃 平安時代中期の女流歌人。父は大江雅致、母は平保衡の娘。冷泉天皇皇后昌子のもとに早くから出仕した。和泉守の橘道貞と結婚し、後に有名な歌人となる小式部内侍を生んだが、冷泉天皇皇子為尊親王と関係したため道貞と離婚をする。夫の任国和泉、父の官名式部で、和泉式部。昔の女性は名がないのでこのように呼ばれました。長保4 (1002) 年為尊親王と死別。翌年その弟敦道親王と関係が生じた。ここがすごいですよね。5年後敦道親王とも死別する。この経験から『和泉式部日記』を残す。その後一条天皇の中宮である彰子に再出仕した。紫式部や赤染衛門らとともに道長の娘に仕え、定子仕えた清少納言とはライバルの図式となる。その後藤原保昌と再婚する。波乱万丈ですね。晩年は歌作がなく、様々な説話や伝説は民間信仰と結びついて広く各地に分布している。のですが、その伝説は北海道から九州まで至るのです。凄すぎますよね。恋多き女性は時代を乗り越えながら愛されたのですね。いつか、私も伝説を求めて歩きたいです。歌集に『和泉式部集』がある。
和泉式部の小説を読みました。
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこいしき
すごい歌です。今でもどきりとします。政治的な男社会の論理に翻弄され、多くの人と恋に落ち、別れ、苦しみ生きていく女性が描かれます。面白いのは同じ宮中に仕えていた赤染衛門、その娘江侍従が式部の死後にその人生の謎を特形で書かれているところ。私はこういうフレームと歴史小説の形はとても好きです。読了2017/7/8
京都の繁華街寺町通の誓願寺は、古くから庶民、芸道上達、念仏道場の寺として有名です。清少納言、和泉式部や松の丸殿(秀吉の側室)が帰依したことから、女人往生の寺としても名高い。元々奈良にあったが、鎌倉時代に京都へ、この寺町の地へは秀吉の区画整理で移ってきました。和泉式部が娘に先立たれて悲しみから各地をさまよった後、この寺で念仏をとなえて往生したことから、和泉式部忌が始まりました。残念ながら参加できませんでした。お誘いありがとうございます。2017/6/3
晩年はよくわかっていないが、ここ京都の木津川市に墓が残っている。高さ約1.3メートルの五輪塔で中世に建立。式部はここ木津川の生まれで、宮仕えの後ここで晩年を過ごしたという伝説がある。記録としては残っていない。
いづみがわ 水のみわたの 松のうへに 山かげ涼し 秋のはつかぜ
小さなお堂の横を抜けて裏手にまわるとそこにあります。ながいながい間、この伝説は塔とともに伝承されてきたのです。 川沿いの土地で周囲は住宅地。式部の空は曇っていました。写真だらけで読み込みづらかったらすいません。2017/5/14
かなり移動しました。もっと有名な墓は京都、大繁華街新京極に入口を持つ誠心院のものです。2017/5/14
中に入ると本堂が、以前はなかった記念写真用パネルが。さすがに顔は入れませんでした。裏手に回っていくと多くのお墓の手前にあります。式部の空は晴れてきました。
お寺の案内板を写しました。
寺伝に依りますと、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠りご本尊に教えを受けます。女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生しました。
上東門院彰子が父藤原道長に勧め、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院としました。(現在の京都御所の 東、荒神口辺りでした。)