業平の足跡を追う!! その1 神戸 布引の滝編
2階で案内をもらって、布引の4滝に向かいました。タイトル写真は滝をめぐるハイキングの途中で。2018/2/16
『伊勢物語』87段前半
むかし、男、津の国、菟原の郡、蘆屋の里にしるよしして、いきてすみけり。昔の歌に、
蘆の屋のなだのしほ焼きいとまなみつげの小櫛もささず来にけり
とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ蘆屋のなだとはいひける。この男、なま宮づかへしければ、それをたよりにて、衛府の佐ども集り来にけり。この男のこのかみも衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに、遊び歩きて、「いざ、この山のかみにありといふ布引の滝見にのぼらむ」といひて、のぼりて見るに、その滝、ものよりことなり。長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつつめらむやうになむありける。さる滝のかみに、わらうだの大きさして、さしいでたる石あり。その石の上に走りかかる水は、小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな滝の歌よます。かの衛府の督まづよむ。
わが世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けむ
あるじ、次によむ。
ぬき乱る人かそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに
とよめりければ、かたへの人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。
昔の人はよく泣きます。感情に素直に生きるのは羨ましいです。在原氏の所領があるのと、壬申の乱に連座して流されている途中にそこに寄っているです。涙の訳です。兄の行平の歌碑が2つ、業平の歌碑が1つ、滝の横にありました。
新幹線新神戸駅のすぐ後ろ。400メートルのところに雄滝があります。
左正面は業平の歌碑です。
業平と行平兄弟の歌碑です。
涙 涙 涙の涙石 ここらで貴族たちが集まって滝を見たのですね。
現在は布を引いたようには流れていませんが、滝壺に映り込む様子がきれいですね。水量は文章とは当然違います。上流に貯水池ができています。周囲には明治期の産業遺産である重要文化財がいくつもあり、「雌滝取水堰提及び取水施設」「砂子橋」などを目にしました。滝の上流の「分水堰提付属橋」や「締切堰提」はブラタモリでも登場してました。
左は帰り道に神戸を見みました。右は天気が今一つですね。駅と六甲山系の山です。
業平の足跡を追う!! その2 神戸 芦屋編
芦屋駅から線路沿いに神戸方面に戻ると、業平の歌碑があります。2018/2/16
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
業平橋です。聞いたことがありますね。東京で。『伊勢物語』87段「蘆屋の里にしるよしして」の「知る、治る(所有する。領有する。)」場所です。
業平ゆかりの名前が次々にでてきます。他に喫茶「業平」も見ました。
業平公園
ここら辺りに在原氏、および業平と行平の父の阿保親王の所領があったと言われています。業平の名がたくさんあるのは、その証拠です。
業平の足跡を追う!! その3 京都北山編
上賀茂神社(加茂別雷神社)
2018/2/18
『徒然草』67段 本文
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚、
月をめで花をながめしいにしへの
やさしき人はここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそさぶらはめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
2人の歌人を祀った社はよく混同されています。和尚に確認するとやはり岩本社が業平を祀っているようです。2つの社に参った人が、歌人として大成した話が続きます。歌が上手くなりたいなら、ぜひお参りしたほうがいいですね。
左の岩本社と右の橋下社。ともに上賀茂神社に祀られています。確かに橋本社は今も結界の水の流れ(御手洗川)の元にあります。
日本には10頭、神馬がいるそうです。たった10頭。知りませんでした。建物だけが残っていることは多いですよね。
業平の足跡を追う!! その4 京都洛中編
祇園の恵比寿神社、その末社に岩本稲荷大明神があります。実は阿仏尼(『十六夜日記』の作者)が彫った業平像が祀られているとか。いずれにせよ和歌の神様です。2018/2/18
続いて京都大学の横、吉田山の吉田神社に来ました。場所がわからずに山を一回りしてしまいました。発見!! 竹中稲荷神社。朱塗りの鳥居をいくつも潜り到着しました。
以前大原野のお墓に行ったことがありますが、こんなところにあるのは知りませんでした。神社の裏手に神秘の空間がありした。
そこは神々の銘を記した石が立ち並び、壮観で静謐な空間。しばらく探すと傾斜の上方に何かありそう。近づくと奥社の手前にありました。業平塚。880年に大原野の十輪寺で56歳の生涯を終えた時、吉田山の奥に葬るように遺言を残したという伝説を裏付けるものでしょうか。
烏丸御池交差点から東へ三筋、ビルが立ち並ぶオフィス街の角に、ありました。在原業平邸跡。ここに十輪寺に移るまで暮らしていました。政治力的にはあまり恵まれていなかった印象ですが、復元図などの地図では有力貴族や仮禁裏など、さすがの場所です。
業平の足跡を追う!! その5 業平の父 阿保親王の親王塚 芦屋編その2
念願の阿保親王の御墓参り。この写真の感じは宮内省の管理です。芦屋の人々は阿保親王への思い入れが強いとか。
785年に淀川と神崎川を繋ぐ水路ができ、京から尼崎へ船で行けるようになる。芦屋は別荘地となり、業平の父阿保親王も所領を持ち、別荘を作った。これが行平と業平の芦屋での物語の発端となりました。
阿保親王は平城天皇の第一皇子として生誕。桓武天皇の孫。本来なら天皇になるべき人物であったが、平城天皇が寵愛していた藤原薬子が平城京再遷都を画策して破れた薬子の変(810年)に関わったとされて太宰府に流されます。この事件に連座して業平と兄はこの地に流れてきたのです。ちなみに阿保親王は824年に許され帰京。芦屋の打出という場所で、51歳で薨去したと伝えられています。
そこここに阿保親王の名を見ます。交差点にも、橋にも、電柱にも。
業平の足跡を追う!! その6 京都洛中編その2
六段 芥川
天皇の孫としてうまれながら不遇の業平は、政権から遠く、和歌を頼りに生きていました。身分違いの女性に恋をし、とうとう娘を連れ出します。こんな逢瀬も雨雲のように迫る権力者の追っ手になすすべがありませんでした。
むかし、をとこありけり。女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ、いと暗きに来けり。芥川といふ河をゐていきければ、草の上にをきたりける露を、かれはなにぞとなむをとこに問ひける。ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
いくら悔やんでも娘は食べられてしまいました。いや連れて行かれました。憎きは世を我がもののごとく繁栄する藤原氏。伊勢物語には多くの氏族のうらみが潜んでいます。こんな権力を持つ鬼のような藤原冬嗣一門を相手に娘を奪取します。痛快で危うげで燃える恋であったのでしょう。実は。
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。まだいと若うて、后のたゞにおはしましける時とや。
業平の足跡を追う!! その7 京都 烏丸編
東五条第跡
高子 は平安前期の清和天皇の女御。陽成天皇の母となる。祖父は藤原冬嗣、父は藤原長良。東五条第(左京五条四坊)に住んでいたといわれている。貞観1(859)年に、清和天皇即位に伴う大嘗祭で天皇との結婚を前提とした五節舞姫となる。物語に出てくるのは、父が亡くなっていたので、後ろ盾であった叔父良房のもと、基経、国経兄弟があわてて連れ戻しに来たのでしょう。
現在も京都の中心地、烏丸駅の出口付近。ビルの入り口横の奥まったところに案内板があります。2019/2/25
業平の足跡を追う!! その8 水無瀬編 「小野の雪」
京都から電車で30分程度。淀川、桂川、宇治川の分岐点に水無瀬があります。かつて水無瀬(大阪府三島郡島本町)には、後鳥羽天皇の避暑のための離宮があった。現在はその跡地に水無瀬神宮があります。その300年前に現在は特定できないが、惟喬の皇子の離宮がありました。
むかし、水無瀬に通ひ給ひし惟喬の親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁仕うまつれり。日ごろ経て、宮に帰りたまうけり。御おくりして、とくいなむと思ふに、大御酒たまひ、禄たまはむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、
枕とて 草ひきむすぶ こともせじ 秋の夜とだに 頼まれなくに
とよみける。時は弥生のつごもりなりけり。親王、おほとのごもらで明かし給うてけり。かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろしたまうてけり。睦月に、をがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。しひて御室にまうでてをがみ奉るに、つれづれといとものがなしくて、おはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮れに帰るとて、
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
とてなむ、泣く泣く来にける。
『伊勢物語』83段
小野の雪 と言われる章段です。
惟喬の親王は、文徳天皇の第一皇子。小野の宮、または水無瀬の宮と称した。藤原氏に皇位継承を妨害され、不遇のうちに一生を終えた。(844~897年)
馬の頭なる翁が在原業平です。
都から少し離れた小野にきて、なかなか帰してくれない親しく仕える皇子がいた。馬の頭は帰りたく思い歌を作ったこともあった。その皇子の突然の出家の知らせに驚き雪の中訪問し、別れがたく話をしているが、朝廷の用事で帰らなくてはいけなくなってしまった。馬の頭は泣く泣く都に帰っていった。
こんなあらすじです。