埼玉県 熊谷駅
やっとこれました。近いのに遠いですよね。武蔵国熊谷郷の武将。直実の像です。父・直貞は熊谷郷の領主となり、熊谷の姓を名乗ったのです。2017/11/18
初めは京に出て平家に仕えます。きっかけははっきりと分かっていませんが、石橋山の戦い以降は源頼朝に仕えます。徐々に名を上げて郷土の熊谷に所領を得ます。富士川の戦い、一ノ谷の戦いでは義経に従って、武功をあげます。
兵庫県 須磨
兵庫県 須磨の敦盛塚 4メートル近い大きさにびっくり。この前の海岸沿いの道を通る、江戸時代の大名はここで敦盛への思いを馳せました。須磨海岸の一ノ谷合戦の地 この日は穏やかな海でしたが、ここが「敦盛の最期」の地です。 2016/11/17
須磨寺の合戦ジオラマです。誰だかわかりますよね。他にも敦盛の首を洗った池や敦盛の横笛など、興味深いです。海岸線は侵食されて昔の面影は見えません。近くに阪神淡路大震災の慰霊塔がありました。時代を超えて鎮魂の気持ちを新たに海を見ました。
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京都府 金戒光明寺
金戒光明寺 (別名 黒谷 )に行きました。2017/5/14
五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏は頭髪(螺髪(らほつ))がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。全国に15体いらっしゃる。私が知っているのは奈良の五劫院、東京九品仏の淨真寺とか。石仏は珍しいです。「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」。劫とはインドの時間のカルパ。意味は天女が100年に一度降りてきて、羽衣で軽くひとこすりして、7km立方の石が摩滅してもまだ余りある時間。って想像力の限界。
「一ノ谷の戦い」の後日談。戦国の世に戦の中で無常を感じた武将熊谷直実が、身に着けていた鎧を池で清め、武士道に別れを告げる意味で、1本の松にその鎧を掛けました。本堂手前がその時の「鎧掛けの松」。2014年に植えられた3代目です。確かに以前来た時はもっと堂々と這うように感じたのですが。法然上人に頼んでこの地で出家しました。
この蓮池の畔に庵を建てて住んでいました。現在の蓮池院(熊谷堂)です。法然上人御廟の前に、高さ2メートルを超える熊谷直実(右)と平敦盛(左)の供養塔が向かい合うように建っています。次のパノラマ写真です。