大島昌二氏稿 2篇 2023.1.26(木)
(1) 映画「陸軍登戸研究所」ほか雑録
(2) 『ケインズ卿の投資哲学 』
(1) 映画「陸軍登戸研究所」ほか雑録
三大学にまたがる大塚金之助先生の往年のゼミナール生が毎年発行する「大 塚会会報41号」(2014 年 8 月発行)への大島の寄稿文です。 映画「陸軍登戸研究所」ほか雑録 大島昌二(会友)
1 ) 三大学にまたがる大塚金之助先生の往年のゼミナール生が毎年発行する「大 塚会会報41号」(2014 年 8 月発行)への大島の寄稿文です。
映画「陸軍登戸研究所」ほか雑録 大島昌二(会友) 1)気づかれた方もおられることと思う。図書館でふと手にした文芸春秋2 月号の「代表的日本人の新選百人一首」に目をひかれた。そこから5首ほどを メモしてきたが中には大塚先生のものもあった。
「まづしさにありてするどくも のをいふこのたましひをまぐるとおもふか」である。
今それを読み返してみて もっとも心が震えるのは幸徳秋水の次の句である。
さながらに猟矢(さつや)遁れし雁ひとつ二見ヶ浦にわれおちてこし
幸徳秋水は大逆事件で逮捕される前年に二見ヶ浦に来ているという。比喩は 直線的で彼のその後の運命を知る者には迫真の趣がある。
歌人としても知られた南原繁の「人間の常識を超え学識を超えて日本世界と戦 ふ」というのも選ばれている。
これに関しては選者たちによって次のような意見が交わさ れている。
大塚先生の作については何もコメントがなされていない。 馬場あき子 でも「そうだ!日本はこれから世界と戦うんだ」と受け取った人もい たでしょうね。 岡井隆 これはむしろそっちでしょう?この人はナショナリストでもあるんだ。僕 はそういう視点で「形相論」を書いています。…始まった以上、自分は一人の日本人と して、やっぱりそれを肯定せざるを得ないんだという気持が『形相』には表れています よ。 永田和宏 うーん、そうかなぁ この後で私は『形相』に「民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾 はむか」という一首があることを知った。
2)藤原定家の『明月記』には何が書いてあるのか以前から気になっていた。 もちろん漢文の日記を読む能力はないから堀田善衛『定家明月記私抄』でその 概要を知ることにした。ところがこれがなんとも読みごたえのある本で、『方 丈記私記』も読んだ上で、文庫本で出ている『めぐりあいし人びと』、『上海 にて』へと進んだ。この2冊で私は堀田善衛の並外れた生涯を知り、その作品 世界へと導かれた。
『上海にて』には南京事件に触れた章があり、「歴史とい うものの、また人間の行為というものの不可逆性の怖ろしさ、とりかえしのつ 2 かなさが、そこにむき出しになっているのだ」という言葉がある。 堀田の父は慶応大学で小泉信三と同級生で「戦時中の小泉さんは本土決戦も 辞せずというものすごい主戦論者で、一度、親父が東京で会った時に、『あな たはアメリカの実情を一番よく知っているはずだ。それなのに、なんでそんな バカなことをいつまでもいっているのか』と小泉にいって、その場で大喧嘩に なった」ことを紹介している。
私はここ数年、中学時代の国語の先生と文通をするようになっていたので、 彼女に堀田善衛の作品について話した。ところがさすがに国語の先生と言うべ きか、堀田の作品は明月記と方丈記のほかにモンテーニュやゴヤを主題にする 2つの長編を読んでおられた。
堀田に南京事件を中国人の観点から見た『時間』 という長編があることを話すと、その後にそれを2度も読んだと言って私を驚 かせた。『上海にて』や『時間』を読んで彼女は初めてなぜ堀田がゴヤに熱中 したかが分かったと言う。
先生からは堀田がかつて NHK のテレビ人間大学で「時代と人間」と題して3 回にわたって放送した番組の CD を頂戴した。私はモンテーニュやゴヤを読む機 会があるとは思えないのでこの CD で間に合わせたつもりになっている。
3)飯沢匡の本は買ったまま本棚にしまい込まれていた。『権力と笑いのは ざ間で』と『異史明治天皇伝』である。私は日本の著作家たちは一般に面白味 に乏しいと思っているからその点では例外的なこの劇作家に関心をもっていた。 飯沢はいろんな人がいろんな形で書くことではないことを、結果としてそれら を笑い飛ばすような形で書く人である。
学生時代に一橋講堂で飯沢の『二号』 という芝居を見たことがある。それに主演した杉村春子がその頃、「いつまで も狭苦しい大学の講堂なんかではなくもっとゆったりした劇場で芝居をしたい わね」というようなことを言っていた。
まず明治天皇伝である。これは表題の示す通り伊沢多喜男(貴族院議員、枢 密顧問官)を父とし、伊沢修二(洋学派の教育行政官、貴族院議員)、湯本武 比古(大正天皇の傳育官、学習院教授)、という2人を伯父に持つ飯沢匡の、 本人自身が「勝手気侭」という取材法による異色の明治天皇伝である。
飯沢によれば明治期の文化的潮流は元田永孚(教育勅語の立案者)と福沢諭 吉という相対立する2人によって代表されるが、宮廷という旧社会が身に染み ついている明治天皇は、忠孝を基幹とした儒学を奉ずる元田の強い影響下にあ った。(このことは日本の歴史に後々まで残る災いとなった。)「侍従長の徳 大寺と侍講の元田永孚が殆ど明治天皇を独占し総理大臣としての伊藤(博文) が国務上の書類に御璽を頂くとか、勅許を仰ぐとか説明に伺候しても天皇は二 人と要談中といって伊藤は待たされることが多かった。」洋学派の急先鋒で元田によって文相への就任を名指しで反対されていた森有礼は神官出身の刺客に よって暗殺されるが、暗殺を恐れる福沢は 10 年外出をしなかったという。
日本人は今でもサムライとその文化が大好きだが、飯沢は次のような傾聴す べき指摘をしている。「(福沢はじめ洋学派によって)漸く『四民平等』の思 想を植えつけられた町民は急速に武士化して旧武士の風俗習慣を町民のものに したのが明治維新である。
ために笑うことを最も危険に思っていた武士の真似 をして町人まで謹厳に謹厳にと武士風に笑わなくなったのが明治、大正の日本 の文化界で日本は近代化したとしながら大切なユーモアを置き忘れしかも、軽 蔑したのが日本であった。
特に学界は武士文化を改革せぬままに受けつぎ西洋 文化をとり入れてもユーモアは漉してとり去り武士文化に相応しい西洋文化を とり入れたのであった。」
戦後、柔剣道は禁止されたが子供たちの間では野球が野火のように広がった。 道具は間に合わせのみすぼらしいものであったが、野球は一瞬にしてスポーツ が真剣であると同時に、明るいもの、楽しむもの、笑顔が決して御法度ではな いことを知らせた。
明治天皇に関しては飛鳥井雅道氏の『明治大帝』からも多くのことを教えら れた。同書は、いわゆる「倒幕の密勅」が偽勅であることを明快に示し、やが て「『玉』をにぎることから、『玉』を『表』にひきだすことが彼ら新政権担 当者の課題になった」と明快に説く。
しかし、著者は同書で飯沢匡の本は「著 者の近親者の回想を除いてはあまり信頼できない」と書いて飯沢を激怒させる が、なぜ信頼できないかは書いていない。しかも同書の内容は基本的に飯沢の 説を裏書きするものになっている。偶然かもしれないが、飯沢が土方久明(軍 人、土方久元宮内大臣の子、土方与志の父)の自殺をもって最終章とするのに 対して、飛鳥井の本は終章に乃木希典の殉死事件を置いている。
『権力と笑いのはざ間で』についてはスペースがなくなってしまった。これ は頁ごとに同感に次ぐ同感、一言で言えば私自身と異ならないエゴを発見した という心境だった。
本書を半生記と呼ぶ著者はこう書く。「私の半生は検閲と の戦いであったといってもよい。いや、日本の文化そのものが『検閲下の文化』 なのである。
徳川 350 年の治政の下では、それは厳重を極めた。浮世絵などと いう単なる絵草紙、今のグラフィックみたいなものでも一つ一つ検印がなくて は発行できなかった。
明治へ入っても、それは明治政府によって踏襲されたの で、もちろん戦時中は軍部の検閲は熾烈を極めた。」
ご承知のように、大塚先 生はこのことを「当時の人々は頭脳の細胞のうごきまでも監視されていたので ある」と表現している。
4)ドキュメンタリーという言葉が流布されるようになったのは、1934 年制 4 作のロバート・J・フラハティの映画『アランの男』(”Man of Aran”)以来だと いう。
アラン島は私にとってははるか昔、1962 年春に一人で訪れことのある忘 れがたい島である。 ドキュメンタリーは今でも無数に製作されるが残念ながら中々見る機会に恵 まれない。
そんな折から昨秋、楠山忠之監督の「陸軍登戸研究所」を見る機会 を得たのはこの上ない幸運だった。製作は 2012 年、一般公開は 2013 年 9 月の 短い期間だけであったが、私はこのドキュメンタリーの内容の豊かさに惹かれ て、その短い期間に渋谷の映画館へ 2 度通う結果になった。 この映画は楠山氏が指導する日本映画学校の学生の卒業制作として着想され、 最終的に 7 年越しの努力の末に完成されたものだという。
映画とその背景を手 短に説明すると、この研究所は敗戦まで秘密兵器の開発研究に携わり、毒ガス や細菌の研究も行っていた。そのために当時の科学技術の先端を担う人材がこ こに集められたが、各種の新型兵器の開発ばかりでなく大がかりな偽造紙幣の 製造も行われた。戦争がみじめな敗北に終わってしまうと急遽、証拠の隠滅が 図られた。
しかし、この研究所の存在はその後昭和 23 年に起った「帝銀事件」によって 注目を集め、その捜査が幾つもの壁に突き当る難事件となったことが知られて いる。元々が秘密の研究所だから未だに知られるところは少ない。ところがこ の研究所が悪名高い 731 部隊や好奇心をそそって止まない風船爆弾の開発に関 わっていたこともあって時を追って僅かではあるが研究書も現れ、ほかにも当 時の幹部の 1 人が「自伝的告発書」を残している。
「陸軍登戸研究所」というとても客が集まりそうもない題名を持つこの映画 は、このような状況の中で当時を知る生き証人 40 人近い人たちの証言をもとに して作られた。高齢の生存者から引き出される証言はそれぞれが働いた部署に 関する断片的なもので当然ながら幾つものギャップが残る。また、すでに書物 に書かれたこと以上の新事実も少ないかもしれない。
しかし、活字は疑うこと ができるが音声を伴った映像を疑うことは難しい。画面で証言する人たちはす べてがほぼ例外なく大きな秘密を背負って生きてきた。ところが、過ぎ去った 歳月の長さがそうさせるものか、証言者の語り口は「あっけらかん」と言って よいほど率直である。
楠山氏は「自分の孫のような若者が聞き手だから、みな 熱心に話してくれた」という。映画を見終わった感想を一言でいえば、この研 究所一つをとってみても「戦争はなんという膨大な浪費であったことか」とい うことである。
しかし話はこれだけでは終らない。しばらくして私は登戸研究所の跡地に立 つ「明治大学平和教育登戸研究所資料館」の見学に出かけた。そこでたまたま 開催中であった「本土決戦と秘密戦」の展示を前に昭和史の研究者である山田 5 朗館長(明大教授)の説明を聞き、最後には勝手な意見を述べさせてもらうと ころまで行ってしまった。
映画でも触れられてはいたが、戦争の末期に至って 登戸研究所の一部は松代の大本営地下壕の建設に伴ってその近辺(伊那谷の駒 ヶ根周辺という)に疎開していたことにあらためて目を開かれたのである。 第二次大戦末期に大本営を松代に移す計画が進められていたことは、戦後に なっても最初は噂として、そしてやがては事実として知られるようになり、松 代町(現在は長野市松代町)に建設された三つの地下壕のうち象山地下壕が公 開されており一部ではあるが壕内の見学も可能になっている。
私は 2007 年 5 月 と 12 年4月の2度、松代を訪れてそのつど象山地下壕を見学していた。 本土決戦に備えた地下壕の建設などとは気狂い沙汰としか思われないが、実 際にその規模を見るとそうばかりとは言えない。2011 年には慶応大学の日吉キ ャンパス内に残された大地下壕を見学する機会を得たが、そこは陸に上がった 連合艦隊司令部によって実際に使用されていた。
戦艦大和の通信兵は被弾する 大和の最後の姿を日吉の通信兵に向って打電し続けたのである。 松代町の三箇所に計画された巨大地下壕は敗戦当時、ほぼ 75%完成していた といわれる。計画が秘密裏に進められたため多くは噂の域を出なかったが近年 になってようやくその全容が明らかにされつつある。
地下壕は松代だけではな く須坂などの近隣町村にも倉庫という名目で建設が進められたが、その中核を なすものは松代の舞鶴山、皆神山、象山の地下であり突貫工事は幾多の悲劇を 生んでいる。現在公開されている象山地下壕は長野県の管理するものであるが、 大本営に予定された舞鶴山地下壕は戦後は名称を変えながら、最先端を行く地 震観測所として、現在も使用されている。皆神山は岩盤が弱いことが判明した ために当初の皇族の住居から食糧倉庫に変更されたという。
松代が大本営の移転場所として選ばれた理由として信州は神州に通じ、皆神 山は神々の集う山であることが上げられたと伝えられている。それがすべての 理由ではないとしても狂気の時代を知るものは、信じ難きを信じなければなら ないようだ。大本営と言うからには天皇の御
座所もなければならない。また三 種の神器を収める賢所もこの山中に構想されていた。 これで登戸研究所と松代大本営地下壕という2つの拠点を細々ながら線で結 ぶことができる。連合艦隊司令部はすでに地下壕の中で機能していた。それだ けではなく、最後の最後まで焦土作戦、徹底抗戦を叫んだ軍部は神州不滅とい う空疎な虚勢を張る傍らでは彼らなりの防衛戦を具体的に構想しつつあったよ うに見える。
1989 年には細菌戦に備えたと見られる石井式濾過筒が大量に発見 されている。 1947 年、全国巡幸の途次長野市を訪れた昭和天皇は善光寺平を一望する展望 台に立って「この辺に戦時中無駄な穴を掘ったところがあるというがどの辺 6 か?」と案内の林虎雄県知事に尋ねたという(林著『過ぎてきた道』)。
まるで 他人ごとのようだが「戦争はなんという膨大な浪費であったことか」という私 の感想をなぞってくれている。
天皇は次のような御製も残している。1945 年終 戦時の作と伝えられる。「主観的なあまりにも主観的な」作品である。
爆撃に倒れゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
5)映画「陸軍登戸研究所」にもう一度戻ると、私がこれを 2 回も見に行った のは、映画そのものばかりでなく、風船爆弾をめぐっての女性たちの語り口に 引き込まれたからであった。銃後の女性たちの生き様をのぞかせるものがある。 風船爆弾の風船部分は秘匿のために窓に目張りをした宝塚劇場のフロアーな どで縫製された。動員で駆り出された雙葉学園の女子生徒たちは「御免あそば せ」という言葉を時局にふさわしくないと咎められると次にはお互いに「御免 はたらけ」と言い合うようになったという。「遊ばせ」で悪ければ「働け」なら 良いだろうということらしい。
風船爆弾は北茨城市の五浦海岸から打ち上げられた。その証言を求められて いる老人は病床にあってろくに口を利けない。ところがその介添えをしていた 夫人は次第に雄弁になって夫の通訳をしながらインタビューの主役の座を占め てしまう。風船は海岸から気流に乗せて推定 9000 個が放たれたが数十の巨大な 気球が空に浮かぶさまは壮観だったらしい。そうかと思えば彼女はまた、問わ ず語りに、磐城平沖(現いわき市沖)に停泊する米国艦船から日立鉱山の煙突 めがけて撃ち込まれる艦砲射撃の音響をたくみに表現して見せる。(私は東北訛 りの機嫌の良い語り口に思わず笑ってしまった。)
風船爆弾の製造は福岡でも行われた。ここではきちんとした身なりの女性が 当時の様子をしっかりと覚えていた。彼女は後に風船爆弾の犠牲になったアメ リカ人の遺族にお悔みを述べにアメリカまで出かけている。見事な標準語に終 始していた彼女は最後には「ばってん言葉」で立て板に水を流すようにして話 を締めくくった。(あまりに見事だったのでこれも笑わずにいられなかった。)
先に「自伝的告白書」とした著書『陸軍登戸研究所の真実』を後に残したの は毒薬・細菌兵器研究部門の責任者であった伴繁雄である。
彼は職場では優し い上司であった反面、南京や上海へ出かけては好んで人体実験を行ったという。 伴の後妻となった井上俊子の話には万金の重みがある。
彼女は、かつては存在 したかもしれないサムライの妻のように、夫にひたすら仕えたらしい。その夫 について彼女は「この人は果して人間の感情を持っているのだろうか」と思う ことがあったという。
一緒に暮らしながら、夫の仕事が何であるかも一切知ら なかった。 7 戦後、その夫は変身したらしい。これまでの記録を書き上げないうちに死ぬ ことはできないと言って著書に心血を注ぎ、それが完成する前と後では顔つき が一変したともいう。壁面を飾っていた夫の肖像写真は映画製作班が後に訪れ た時には姿を消していた。それを問われた彼女は「もうあの人のことは忘れて これからは私の人生を生きます」と答えている。一貫して隠し隔てなく亡夫に ついて語る彼女の表情にはメリー・ウィドウの晴れやかさがあった。(14/06/14)
(2) 『ケインズ卿の投資哲学 』
1)一橋大学に入学して最初の頃に読んだ本の一冊は亡くなられて間もなかった故杉本栄一教授の『近代経済学の解明』であった。序文であったと思うが、先生が経済学の教授であると知った近所のご婦人から「それならお金持ちでしょう」と言われたという。
ここで杉本教授の言いたかったことは、経済学は金儲けのための学問ではなく経世の学であるということであった。これを読んで私にはピンとくるものがあった。私の高校の校歌に「経世の任は重かるを、来たれ雄飛の雲呼ばん」という勇ましい一節があったのである。校歌というものはその歌詞を信じて歌うものとは限らない。私に経世の任に就こうなどという野心はもちろんなかった。
さて、ジョン・メイナード・ケインズは泣く子も黙る経済学の泰斗である。そのケイ
ンズは経済学ばかりでなく投資の成功者でもあったことがよく知られている。門下であるハロッド教授の伝記によれば、ケインズが投資のために使った時間は毎朝30 分ほどベッドの上からブローカーに電話をするだけであったという。
それだけで彼は自分の大学(ケンブリッジ大学、キングズ・カレッジ)だけでなく自
分自身にも大きな富をもたらしたという。これだけではどうも神話じみているのでも
う少し詳しく知りたいと思うのは世の常であろう。ティム・ハーフォードというファイナンシャル・タイムズのコラムニスト・エコノミストも同感と見えて昨年5月に「J. M. ケインズの投資の教訓」というコラムを書いていた。まずそれをご紹介するところから始める。
1918 年3月ドイツ陸軍がパリ郊外に陣取っている最中、イギリスの若きエコノミストであったケインズはこの光の都で思いもよらないオークションが行われることを耳にした。エドガー・ドガの遺産であるフランス19世紀の名だたる画家たちの膨大な作品群が競売に出されたのである。ケインズはすぐさま正気とは思えない冒険に乗り出した。彼は大蔵大臣を説得して美術品の購入のための2万ポンドの資金を確保した。当時の2万ポンドは今ならば数百万ポンドに相当する。大戦の火ぶたが切られてから4年になろうとしている時に思いもよらない散財である。
ケインズは変装したナショナル・ギャラリーのチャールズ・ホームズ卿と連れ立って駆逐艦と飛行船に守られてフランスに渡り、降り注ぐドイツ軍の砲弾下で進められたオークションの品々を片っ端から手に入れた。
2) ケインズは後にあの時の私の行動は疾風の中に飛び込んでいったようなものだったと回顧している。まさにその通りで彼は火中の栗を拾ったのであった。しかし彼はリスクをリオードに転換するコツ(knack)を心得ていた。
1946 年に死亡した時、彼は株式と債券を40万ポンド、ニュートンの Mathematica の原本、ミルトンの『失楽園』の初版本、絵画ではブラック、ピカソ、スーラー、マチス、シッカート、ドガなどの作品を所有していた。
ケインズはどのようにしてこのような成果を上げたのだろうか。もちろんコツだけでは答えにならない。ハーフォード氏は John Wasik と Justyn Walsh による2冊の本、David Chambers, Elroy Dimson ほかの金融経済学者の論文を調べてみた。
真っ先に明らかに見えることは、失敗から大きな教訓を学んだということだ。パリへの冒険旅行の18か月後ケインズは変動の大きい戦後の通貨市場での投機に乗り出している。当初しばらくはうまく波に乗り、数か月のうちに6,000 ポンドの利益を手にした。現在の価値に直すと 100 万ポンドほどになる。彼は母への手紙で満足げにこう書いている。「お金って変なものですよ。ちょっとばかりの余分な知識と特殊な経験のご褒美として(どう見てもいわれのないところに)どんどん流れ込んでくるのですよ。」
ところがその数か月後にケインズは丸裸になってしまった。彼は借金をした上で何とか損を利益に変えることができた。しかし30台も末近くなって学んだ教訓は貴重だった。1929 年にウオール街を襲った暴落にはケインズも不意を突かれたがその後の反応は誰よりも早かった。
ケインズの投資行動から見て取れる第二の教訓は、一貫性は必要がないということである。ケインズは美術品と通貨への衝動的な冒険から始めて、自分は景気循環を予測できるという自信の上に立って循環的な株式投資
を試みたが、最後には循環予測を捨ててベンジャミン・グレアムやウオレン・バフェットが広めたような価値基準の長期投資(long-term value investing)へと移行した。
ケインズはこれらの相互に撞着する投資手法を同時並行的に用いてもいる。経済学者のエレオノラ・サンフィリッポは 1937 年の暴落(1929 年の 40%に及ぶ株式の大暴落は、一旦は回復するかに見えたが壊滅的な大暴落は 1930 年 5 月から 1932 年 12 月に起こり、その後も震動は絶えなかった)の際にケインズはキングズ・カレッジの投資に関しては”buy and hold”(持ち株を持続保有する)戦略を取り、彼自身の持ち株は下げ相場のただ中に売り放している。これは彼の資金事情がせっぱ詰まっていた為かもしれないし、値上がり巾が大きく分散度が低いので利益を実現しておきたかったのかもしれない。
いずれにしてもケインズの投資手法を見定めるのは難事である。John Wasik はケインズの基本的な投資原則のリストを作ってはいるが「群衆に同調するな」というのもあれば「流れに逆らうな」というのもあってすっきりしない。
ケインズは 1936 年に出版した『一般理論』の中で「これから 10 年後の鉄道,銅鉱山、…ロンドンのシティの建物などがもたらす収益を予測するわれわれの知識の根拠はほとんど無きに等しい」と述べている。しかし1942年になると「私は通常、目先の変動は無視して長期間の先行きを見ることにしている」と述べている。
ハーフォード氏は「ケインズの伝記を読んで賢明な投資家になれるとは思えない」という。
ケインズの言動は一貫性を欠いている。自分の意見を変えることができるのは得難い徳目である。しかしまた、時には、自分の信念を貫く勇気を持つことも同様である。ハーフォード氏のコラムは次のような言葉で終っている。
パリのオークションでケインズはホームズ卿に大蔵省が提供した資金のすべてを使い果たすことを説得できなかった。そこでケインズは自分用にセザンヌの静物画「リンゴ」を手に入れた。ナショナル・ギャラリーは大魚を逸したのである。この静物画は今ケンブリッジのフィッツウイリアム美術館の壁を飾っている。
3 ) 私は「美人投票論」こそがケインズの投資理論としてもっとも精彩に富んだものと思うがここでは本筋に沿って先を急ぐことにする。経済評論家でもあり、実業家でもあったニコラス・ダヴェンポートは”Memoirs of a City Radical” (『シティ急進派の回想』)という回想記を書いている。彼はケインズの友人であり、ケインズが会長として19 年間にわたって君臨したナショナル・ミューチュアル保険の重役としてケインズの働きぶりをまじかに見ていた。
この回想記の第3章は「シティでケインズと働く」と題された興味深い文章である。
この章にはオズワルド・フォールクというケインズのもう一人の友人が登場する。彼はハロッド教授が、ケインズが毎朝30分ほどベッドの上から電話をかけたという相手であり、丸裸になったケインズに資金を提供した一人でもある。しかしケインズの頭脳の働きがいかに俊敏であったとしても毎朝 30 分だけでは用がすまなかったことは
彼とフォールクとの関係をたどれば明らかである。フォールクはバックマスター・アンド・ムーアという証券会社のトップであり 1924 年には後に失敗に終る投資会社(Independent Investment Trust)をケインズと共同で設立している。アクチュアリー(保険計理士)の資格を取り、ケインズと同じ保険会社の取締役にもなった。ケインズをロシア音楽やバレーの世界に引き入れたのも彼であり、妻となるリディア・ロポコーワを紹介したのも彼である。
ダヴェンポートの語る幾つかの挿話を見ればケインズが多分に投機的な気質を持っていたことは明らかである。ケインズは売り買いともに短期の清算取引を活用している。商品取引も彼の手中にあった。ダヴェンポートは経世の学である経済学を講ずるケインズが私益を追うことに当初は戸惑いを感じたというがやがて次のように考えるようになった。
「彼のギャンブルは彼自身の為ばかりでなく彼のカレッジの為であり、経済に関する彼の見解を実地に試すためのものであった。投機は彼の経済学を進歩させ経済学は彼の投機を改善させた。ケインズを偉大な経済学者たらしめたのは投機的なビジネスの本能を理解できたからである。」
これはちょっと飛躍にすぎる結論のように見えるが英国の各種の取引所や株式会社がシティに広まったコーヒー・ハウスを根城として起こった歴史を見ると牽強付会とばかりは言い切れない。
以上