88 達曽焼跡 星山字車 屋号押戸(おしど)


達曽焼とは、星山地区の百沢神社の下、現在の屋号押戸(おしど)のところにあった窯で、焼かれた焼物のことである。達曽という人が焼いていたので「達曽焼」といい、別名を「押戸焼」ともいう。矢巾町史によれば、達曽焼は、達曽豊松と与三松という親子が焼いたらしい。

豊松は、石川県能美郡出身の山田勘助の四男であった。豊松は一説によると「薬売り」で岩手に薬の行商に来ていたらしい。その関係で、現在の矢巾町煙山地区の達曽家に明治22年(1889)婿養子となった。

豊松は、石川県にいた時から瓦などの焼物の生産に従事していたようで、岩手に来てからも焼物を生産しようと考えていた。焼物に適する土を探して星山にやって来た。星山には、良質の粘土があったようである。

窯は、現在の屋号押戸の東山の所に作られ、その窯のわきに小さい自宅を建てた。

登り窯の規模は、全長21m、傾斜度約17度、上幅約5m

明治22年(1889)頃より焼物の生産を開始した。焼物に使う土は、付近の山より採取したらしい。豊松は、主に「瓦」の生産を行い、それ以外にも「大小の甕類」「花生け」「仏器」「徳利類」「皿」「鉢」「茶碗類」「擂鉢」などの日用雑陶器も生産し、付近の農家に販売した。

平成6年(1994)に、星山の屋号五兵エドで、屋根を銅板に葺き替えた時のこと。箱峰の瓦も下に落とした。

その時、一枚だけ文字の刻まれた瓦が発見された。瓦には次のような文字があった。

NO88.達増焼窯跡.mp3