80 忠魂碑 星山字杉田 紫波斎苑かたくりの丘
80 忠魂碑 星山字杉田 紫波斎苑かたくりの丘
忠魂碑建立と移設
忠魂碑建立と移設
昭和3年(1928)9月3日、帝国在郷軍人会彦部村分会長石川鉄次郎氏所有の敷地(元喜久屋商店裏の川村壇隣)提供等の献身的な奉仕と、委員各位の熱意により建設された、忠魂碑の揮毫は陸軍大将一戸兵衛。以後毎年碑前で盛大に参拝行事を挙行した。
昭和3年(1928)9月3日、帝国在郷軍人会彦部村分会長石川鉄次郎氏所有の敷地(元喜久屋商店裏の川村壇隣)提供等の献身的な奉仕と、委員各位の熱意により建設された、忠魂碑の揮毫は陸軍大将一戸兵衛。以後毎年碑前で盛大に参拝行事を挙行した。
しかし、終戦後、連合軍側の指示により「忠魂碑」なるものの存在は認められず、撤去せざるを得なくなったが、村ではそのままにしてきた。放置されたまま戦後40余年荒廃甚だしく、付近の子供達が遊び廻るにも危険な状態となっていた。
しかし、終戦後、連合軍側の指示により「忠魂碑」なるものの存在は認められず、撤去せざるを得なくなったが、村ではそのままにしてきた。放置されたまま戦後40余年荒廃甚だしく、付近の子供達が遊び廻るにも危険な状態となっていた。
彦部遺族会は、軍恩連彦部支部と協議し、保存の方途を検討。昭和62年(1987)11月、彦部地区民に趣旨を説明、高金寺境内の無縁墓地に移転することとなった。昭和63年(1988)1月12日移設完了。
彦部遺族会は、軍恩連彦部支部と協議し、保存の方途を検討。昭和62年(1987)11月、彦部地区民に趣旨を説明、高金寺境内の無縁墓地に移転することとなった。昭和63年(1988)1月12日移設完了。
NO80.1忠魂碑・異例ノ塔.mp3
慰霊の塔新設
慰霊の塔新設
「忠魂碑」の存在が認められなくなったが、国のため一命を捧げられた父や夫、子や兄弟の霊を誰が慰め、感謝の心を持ち続けるのか・・・。太平洋戦争が終わって、彦部地区だけで100柱を数える犠牲者をわれわれは片時も忘れることは許されない。今日の平和の礎となられた英霊の御功績を、永遠に伝え残し、常に感謝と慰霊の念を抱き続けることが如何に大切かを具現すべく、有志相図り「慰霊の塔」を建立することとなり、昭和43年(1968)8月20日、高金寺境内の元紫波町火葬場の入口に建立した。揮毫 岩手県知事 千田 正
「忠魂碑」の存在が認められなくなったが、国のため一命を捧げられた父や夫、子や兄弟の霊を誰が慰め、感謝の心を持ち続けるのか・・・。太平洋戦争が終わって、彦部地区だけで100柱を数える犠牲者をわれわれは片時も忘れることは許されない。今日の平和の礎となられた英霊の御功績を、永遠に伝え残し、常に感謝と慰霊の念を抱き続けることが如何に大切かを具現すべく、有志相図り「慰霊の塔」を建立することとなり、昭和43年(1968)8月20日、高金寺境内の元紫波町火葬場の入口に建立した。揮毫 岩手県知事 千田 正
なお、裏面には、郷土出身の戦没者御芳名103柱の氏名と屋号が刻まれている。
なお、裏面には、郷土出身の戦没者御芳名103柱の氏名と屋号が刻まれている。
忠魂碑・慰霊の塔の移転
忠魂碑・慰霊の塔の移転
紫波町花葬場が、高金寺境内から北隣の字杉田の地に移転することとなり、忠魂碑と慰霊の塔を高金寺境内から紫波斎苑「かたくりの丘」へ、平成21年(2009)8月30日に移転した。費用は、彦部遺族会会員の寄付によった。現在、「かたくりの丘」入り口の駐車場北側の右隅に位置する。
紫波町花葬場が、高金寺境内から北隣の字杉田の地に移転することとなり、忠魂碑と慰霊の塔を高金寺境内から紫波斎苑「かたくりの丘」へ、平成21年(2009)8月30日に移転した。費用は、彦部遺族会会員の寄付によった。現在、「かたくりの丘」入り口の駐車場北側の右隅に位置する。
NO80.2慰霊ノ塔新設.mp3